小説「真理の微笑 真理子編」

十七
 真理子は、午後三時前に家を出て、病院に行くと六階のナースステーションに行ってから、富岡の病室を訪れた。
 もちろん、手指のアルコール消毒は済ませてのことだった。
 椅子に座り、包帯にくるまれた富岡を見ていた。胸のあたりまで薄い毛布が掛けられていた。室内は二十七度に保たれていた。
 富岡は意識不明の状態のままだった。包帯にくるまれた富岡は、指輪を確認したから、富岡修には違いないのだろうが、包帯の上からだとしても、やはり随分と痩せたように見える。
 来週の水曜日には大きな手術がある。真理子は、成功しようがしまいがどうでも良かった。富岡が生きている、という現実がすべてだった。
 先々週の土曜日に手を振って送り出してから、二週間が過ぎた。計画は失敗した。
 しかし、どうして失敗したのか、わからなかった。もっとわからなかったことは、別荘の様子だった。富岡が自分で運転していたのではないことを示すものは、いっぱい出てくるのに、結婚指輪がそれらをすべて否定していた。
 真理子は、目の前にいる包帯に巻かれた富岡に、「あなたは誰」と声に出して言ってみた。そして次に「富岡修さんなの」とこれも声に出した。
 真理子は何が真実なのかわからなくなっていた。ブレーキに細工したことも、今となっては事実だったようではないように思えてきた。
 富岡は運転を過って、事故を起こした。これが残された事実であり、真実であるような気がしてきた。いや、そうではない。これが事実であり、真実なのだ。真理子はそう思った。
 これから先、この思いだけは揺るがせてはいけないと言い聞かせた。

 午後六時になって、看護師が入ってきて、富岡の点滴のパックを取り替えていった。
 それをきっかけとして真理子は家に戻ることにした。ここにいても、真理子にはすることがなかったのだ。
 ナースステーションに声をかけて、病院から出た。通りかかったイタリアンレストランの駐車場に車を止めて中に入った。
 上はベージュのブラウスに、白いカーディガンを羽織り、下は、紺色のスカートだった。窓側の席に座ると、ぼんやりと外を見ていた。
 自分は何で殺そうと思っていた相手の見舞いをしているのだろう、と思った。答えはすぐに出てきた。それはアリバイ証明の一つだったからだ。毎日、見舞いを続けていれば、人は真理子が富岡をどれほど愛していたか、言葉にしなくても理解してくれる。ナースステーションで書き込まれる見舞客の記録は、真理子にとってはその証拠の一つだったのだ。
 注文したあさりのスパゲティは思いのほか、美味しかった。デザートにティラミスとハーブティーを頼んだ。
 食事をして家に着いたのは、午後八時を過ぎていた。
 普段着に着替えると、まだ眠る時間には、早かったので、撮り溜めていた洋画の一つを見た。
 アラン・ドロン主演の古い洋画だった。「太陽がいっぱい」(監督ルネ・クレマン、脚本ポール・ジェゴフ:ルネ・クレマン、原作パトリシア・ハイスミス、主演アラン・ドロン、音楽ニーノ・ロータ、製作会社ロベール・エ・レイモン・アキム:パリタリア他)という邦題の映画だった。
 貧しく孤独なアラン・ドロン主役の青年は、金持ちの知人の父親の依頼を受け、その知人をアメリカに連れ戻すよう言われるが、それに失敗する。金が底をつき、リゾート地で気ままに、恋人と過ごす知人に愛想を尽かしたアラン・ドロンは、彼を殺して、彼になりすまそうとする。その知人の所有するヨット上で彼を殺害したアラン・ドロンは、その死体を帆布でくるみロープで縛って碇に結わえて海に捨てる。そして、その知人になりすまし、彼の財産をある方法を使って手に入れる。
 その後、知人の恋人とも仲良くなり、恋仲となる。
 アラン・ドロンの計画は、成功したように思われたが、知人を殺したヨットが売却され、引き上げられることになった。その際にヨットの後尾のスクリューに絡んだ一本のロープがあり、それを辿っていくと、死体が包まれた帆布の塊が見つかった。
 その時、アラン・ドロンはビーチにいて、日光浴をしていた。そして「太陽がいっぱいで最高の気分だ」と語る。その時、ビーチの売店には刑事がやってきていた……。そんな話だった。
 殺した人間に入れ替わる。真理子には、ストーリーに関係なく、その構図が頭に残った。

 洋画を見終わると、真理子はシャワーを浴びて、ベッドに入った。ベッドに入るとすぐに眠った。