小説「真理の微笑」

十一

 私は富岡を殺した後、その死体を彼の車のトランクに入れて別荘から離れた場所に埋めるつもりだった。リュックには折りたたみのスコップを入れていた。都内の自宅とはおよそ離れた所にある量販店で買い入れたものだった。今度の計画に必要なものはすべて別々の店で購入した。それも大量生産されているものに限った。

 

 死体というものはどうしてこんなにも重いものなのか。

 椅子から下ろしたところで、玄関に運ぼうとしたが、その重さに窓から出す事にした。テーブルを外して、絨毯に乗せたまま、窓際まで引っ張った。富岡の車を使って、死体を運ぶつもりだったので、車のキーを探した。そして、箪笥の中に見つけた富岡のジャケットにあった鍵の束から車のキーを取り出して、車を庭に回そうとした。エンジンをかけるのに手間取った。そして、いざエンジンがかかるとそれまでの静寂がその音に破られる事に驚き焦った。頼むから静かにしていてくれ! 無駄な願いを心の中で叫んだ。

 サッシ窓まで富岡を引きずってくると、庭のデッキの上を富岡を背負って歩いた。数歩が遠かった。トランクに富岡を入れて、持ってきた折りたたみスコップもリュックと一緒にトランクに入れた。

 絨毯を元に戻して、ここが殺害現場だという証拠が残っていないか、何度も確認した。富岡は忽然と別荘から姿を消すのだ。

 庭の窓のサッシを閉じ鍵をかけた。そして、玄関に回り、玄関の鍵も閉めて別荘を出た。

 乗り慣れない車は、私の思い通りには動いてくれなかった。まるで暴れ馬に乗っているかのようだった。アクセルの遊びがあまりなかった。だから、急発進したり速度を出し過ぎたりした。夜のカーブは魔物だ。突然に現れる。気持ちが車の速度を上げていた。しかし、その突然現れるカーブに、ブレーキが悲鳴をあげるように軋みを立てる。車の後部が滑り、振られそうになる寸前で、タイヤが地面をつかまえる。そんな事を繰り返していた。

 私の記憶はそこまでだった。記憶喪失は全然嘘と言うわけでもなかったのだ。しかし、その後死体はどうしたのだろう。トランクに入ったままなのだろうか。

 そんな事はない!

 もし、そうならすぐに逮捕されていなければならない。トランクを調べていないなんて事は考えられない。いくら焼けてしまっていたとしても骨ぐらいは残っているだろう。

 一体、富岡の死体はどうしたのだろう。どこかに埋めたのだろうか。肝心の事が思い出せない。

 

 当初の計画では富岡の別荘から十キロほど離れた山中に埋めるはずだったが、もちろん身元の確認ができる物はすべて取り去っておく必要はあった。その作業は富岡の別荘で行った。予めチェックリストを作り、チェックが済んだ時、灰皿の上でそれを焼き捨てたのは鮮明に覚えている。そして灰はトイレに流したはずだった。

 ただ、このチェックの時、ちょっとした計算違いがあった。彼の指から結婚指輪を抜き取ったまでは良かった。これをどうするか、考えていなかった。ひょいとズボンのポケットなどに入れるとうっかり忘れてしまったりはしないだろうか。そう思ったのが、間違いのもとだった。

 忘れてしまいそうな気がする。こんなにも小さなものだから、これからする作業を終えた頃には、すっかり忘れてしまっていてもおかしくはない。しかし、この指輪は決定的な証拠だ。この庭から闇に向かって投げ捨ててしまおうかとも考えた。だが、どう遠くに放っても数十メートル先に落ちるだろう。失踪した富岡を捜すとき、このあたりは徹底的に捜索されるだろう。そんなときに指輪だけが見つかればどういう事になるか、考えなくても分かる。単なる失踪ではなくなる。このあたりを管轄とする警察署が色めき立つのは、目に見えていた。

 じゃあ、どうする。どこかもう少し離れた所から投げ捨てればいい。今の自分の心理から冷静にそれができるだろうか。

 その時、手袋をした手を見た。いや、見てしまった。家を出る時、結婚指輪を外して机の引出しに入れたのを思い出していた。自分の痕跡もできるだけなくしたかったからだった。だから、時計も安物を新たに購入したくらいだった。

 ふと手袋を脱ぎ、富岡の結婚指輪を左手の薬指に嵌めてしまった。その指輪は設えたようにするっと指に嵌まった。こうすれば忘れる事はないだろうと、その時思った。すぐに抜いてみようとした。だが、指に食い込むように指輪は抜けなかった。

 馬鹿な!

 私は決定的な証拠を左手の薬指に嵌めてしまったのだった。焦ったが、焦れば焦るほど指輪は抜けなかった、まるで悪魔の呪文でもかかっているかのように。

 落ち着け。

 嵌められたものが抜けないなんて事はない。今は焦っているから抜けないのだ。

 その時、台所に行って石けんを使って指から抜けやすくするなんていう事は思いつかなかった。仕方なくそのまま手袋を嵌めた。

 時間は無限にあるわけではなかった。これから、ある場所まで富岡の死体を運んで、穴を掘り、埋めなければならなかった。その場所はすでに一度掘って、土は軟らかくなっているはずだった。ただ、時間に追われていた私は指輪の始末は最後に東京に再び戻る時まで留保する事にした。

 それを除けば、私はすべてにおいて順調だった……と思う。

 計画では死体を埋めた後は、スコップやゴム長やタイヤに付着した土は更に一キロ程下った川で洗い落とし、その後これらの道具はなるべく早く処分しようと考えていた。死体を埋めるのに使った道具を処分した後は、富岡の車を新宿まで運び、適当に路上駐車する。

 私はあるビジネスホテルに泊まっている事になっていた。新宿へ戻った私は、そのホテルにそっと戻り、次の日、七時過ぎにチェックアウトしたら、八時のあずさで茅野まで行き、隠してあった自分の車で東京に戻る予定だった。最初は、富岡の車を別荘に戻す案を考えた。しかし、それでは富岡の別荘から茅野の駐車場までどうやって行くのだ。歩いて行くのか。平坦ではない山道を十数キロかそれ以上歩く事になる。それは無理だった。それなら朝一番のバスを待って、茅野に戻る方がましだ。だが、朝一番のバスほど危険なものはない。誰も乗っていないかも知れない。それに服装だ。ハイキングをするでも登山をするでもない格好は、不自然に見える事だろう。それを運転手が記憶しないとも限らない。とにかく、他人に自分が見られる事だけは避けなければならなかった。一番、まずい選択は、茅野の駐車場に自分の車を置き、そこに富岡の車で行く事だった。駐車場には監視カメラがつけられているかもしれない。それに撮られた映像が消去されない前に、富岡の死体が発見され、富岡の車がその駐車場から見つかったらどうなるかは自明だった。富岡の車と自分の車を同じ駐車場に同時に存在させる事は、何があっても絶対にできなかった。だから、面倒でも富岡の車で東京に戻る必要があったのだ。そして、茅野に電車で向かい、自分の車で東京に戻る。これがベストの案だったのだ。

 一体、私はそのどの時点で事故を起こしたのだろう。富岡の別荘を出て彼の死体を埋めに行く途中までの記憶しかなかった。