小説「真理の微笑 真理子編」

二十八
 八月六日の日曜までは、特に何も変わるところがなかった。富岡の手にされていた拘束は日曜の午前中には外されていた。
 月曜日の午後六時頃、病院に行くと、ナースステーションの看護師から、今週の水曜日に、今いるHCUから一般病室に移るという話があった。
 パンフレットを見せてもらった。一般病室と言っても、通常の病室から特別個室まであるという話だった。通常の病室と特別個室の大きな違いは、その広さと面会時間だった。特別個室の面会時間は比較的自由だった。社長や有名人のような人も多く入院しているこの病院では、入院していても面会に来る人も多いので、そのような人のための特別個室があるのだった。
 真理子は特に考えがあるわけではなかったが、看護師が「社長をされている方では特別個室を選ぶ方が多いですよ」と言ったので、ほとんど反射的に「では特別個室をお願いします」と言っていた。
「部屋番号が決まったら、後ほどお知らせしますね」と看護師は言った。
「用意するものがありますか」と真理子が訊くと、「いいえ、今のところ、特にありません」と言った後、「いえ、特別個室に移ったら、パジャマを毎日着替えるんですが、レンタルにされますか」と訊いた。
「レンタルですか」
「ええ」
 そう言うと看護師はパンフレットを取り出して見せた。
「下はズボンタイプなんですが、上は甚平みたいに、前開きの上着をお願いしているんです。パンフレットにあるように、ブルー系とピンク系の二色しかありません。後はサイズですね」
「レンタルされている方が多いんですか」
「特に好みがあるわけでなければ、レンタルされている方が多いです。毎日、洗濯しないで済みますから」
「そうですか」
「レンタルはフェイスタオルとバスタオルもあります。そちらはご自分で用意される方が多いですね。パンフレットを見て、必要な箇所に記入をして、特別個室が決まった時に出してもらえますか。特別個室に移った日からレンタルが開始されることになりますから」
「わかりました」

 特別個室はC棟の八階のある部屋に決まった。中に入ると、ちょっとしたホテルの部屋のようだった。HCUとは比べようもなく広かった。来客用のテーブルやソファのセットもあった。
 水曜日の午前中に、富岡がその部屋にストレッチャーに乗って連れて来られると、看護師が二人がかりでベッドに横たわらせた。
 それから、点滴をセットすると、看護師が出ていった。
 真理子は、包帯をされた顔をなぞるように手を触れた。この包帯の下の富岡はどんな顔をしているのだろう、と思った。
 しばらくして、真理子は病室を出た。

 金曜日に病室に行くと、看護師が丁度レンタルのパジャマを持ってきていたところだった。そして、そのまま出て行くのかと思ったら、「少しお待ちになっていてくださいね」と言った。秋月医師から話があるということだった。
 真理子が「わかりました」と言うと看護師は出て行った。
 真理子は、腕時計を見た。午前十時を過ぎていた。いつもなら、会社に行っている時間だった。特別個室に移ってから、真理子が朝、病室を訪れる時間も遅くなっていて、このところは午前九時を過ぎていた。
 しばらく待っていると秋月医師が入ってきた。
「お待たせしました」
「いいえ、とんでもありません」
「早速ですが、富岡さんの状態は良好です。もう顔の包帯も取っていい頃なので、来週の月曜日、十四日ですね。包帯を取ることにします」
「わかりました」
「午前十時頃を予定していますが、立ち会われますよね」
「もちろんです」
「では月曜日、午前十時ということで……」
「この病室に待っていればいいんですか」
「そうです。ここで包帯を取ります」
「わかりました」
「では、私はこれで」
 秋月医師が出ていった。
 真理子がこのところ、そうするように包帯の上から、富岡の顔を撫でて「ねぇ、あなた。来週の月曜日に包帯が取れるんですって。良かったわね」と言った。そして、少し笑った。その微かな笑い声は、聞きようによっては泣いているように聞こえたかも知れなかった。