小説「真理の微笑 真理子編」

二十九
 月曜日になった。午前十時少し前に真理子は病院に向かった。病室に入ると、真理子は横たわっている富岡を見た。包帯に巻かれた顔を見るのは、これが最後だった。手術が成功して元通りの顔になっていればいいと思う自分がいることに気付くと、真理子は不思議な気持ちになった。心のどこかでは、人に会わせられないような顔になっている富岡を想像して不安になっていたのだ。
 やがて、秋月医師と湯川医師が看護師を連れて、病室に入ってきた。
 真理子が挨拶をすると、秋月医師も挨拶をして「早速ですけれど、顔の包帯を取りますね」と言って、看護師に指示して顔に巻かれていた包帯を外させた。
 富岡はベッドに横たわったまま、少し頭部を持ち上げられて、包帯は取られた。
 頭髪はまだらに少し伸びている程度だったが、包帯を外された富岡の顔は、セルロイド人形のような、少し光沢のあるつやつや顔だったが、十年ほど前の富岡がそこにいるようだった。
 秋月医師は、手をかざして、富岡がその手を目で見ているかを診た。それを確認すると、隣にいた看護師に何か言った。看護師は丸い手鏡を取り出すと、富岡の顔の前にかざした。
 秋月医師は「さぁ、ご覧なさい。どうです。ご自分のお顔ですよ」と言った。
 富岡は、明らかにその手鏡の中の自分の顔を見ていた。側に立っている真理子にもわかった。富岡は何か言おうとしていたようだったが、声にはならなかった。
「どうですか。全く元のままだと言えないにしても、傷跡はほとんどわからないでしょう」
 そう秋月医師は、真理子に言った。真理子は、驚きで声にならず、ハンカチを口に当てて頷いた。
 湯川医師が富岡に近づくと、顎の骨の調子を確かめるように、富岡の顔に触り、顎を掴んで上を向かせた。そして一言、「よし」と言った。彼はそう言うと病室を出て行った。
 真理子は富岡の頭の近くに近寄ると、「あなた、わたしよ」と声をかけ、そして包帯に巻かれた手を握った。
 富岡は、記憶が戻っていないのか、状況がわからないのか、ただ目を見開いているだけだった。
「ねぇ、わかる。わたしが」と真理子は、さらに声をかけた。
 わたしの名前が思い出せないのではないかと思った真理子は、「ねぇ、真理子よ。真理子」と自分自身の名を口にしてみた。しかし、富岡からは何の反応もなかった。
 真理子はくるっと振り向き、「先生!」と助けを求めるように叫んだ。
 秋月医師は、まだ病室にいた。彼は「ご主人はまだ話せませんし、あれだけの事故に遭われたんだから記憶が一時的に混乱しているという場合だってありますからね」と言った。
「そんな……」と真理子は呟いた。
 秋月医師と看護師が出て行くと、病室の空気が重くなった。
 富岡がじっと自分の方に視線を向けているのを、真理子は気付いた。しかし、真理子は何も言わず、そんな富岡を見ていた。

 病院を出たのは、午前十一時半頃だった。
 少し早かったが、通りがかりのレストランに入った。
 富岡の顔の形成は、驚くほど上手くいっていた。傷跡も見られなかった。顔がつやつやしているだけで、渡した写真のせいもあるが、本当に若返ったように見えた。
 富岡は、真理子のことを忘れているようだった。初めて見る人のような視線で、真理子を見ていた。
 真理子は富岡に訊いてみたいことはいっぱいあったが、今の富岡が話せる状態でないこともわかった。
 しばらくは、様子を見るしかないと真理子は思った。

 会社に行くと、明後日のTS-Wordの発売に向けて、大忙しのようだった。
 社長室に入ると、真理子はその喧噪から解放された。
 しかし、することがなかった。仕方なく、高木専務を呼んだ。
「わたし、ソフトの発売を経験するの、初めてなの」
「そうですよね」
「今は、どんな状態なの」
「臨時に雇ったオペレーターを会議室に集めて、TS-Wordの機能説明をしているところです」
「その臨時オペレーターはどこで仕事をするの」
「すでに会議室が臨時のオペレーター室になっていて、ビジネスフォンをレンタルで借り入れていますので、臨時のオペレーターがそこで顧客からの問合せに応対することになります」
「そう。ありがとう」
 高木が出て行くと、自分が知らない間に、ことが着々と動いていることをまざまざと知った。

 水曜日になった。いよいよ、TS-Wordの発売日だった。
 病院に寄った後、会社に入っていくと、何となく社内の熱気が伝わってくる。
 社長室にいても落ち着かなかった。
 窓辺に寄ってみる。向かいのビルの社員が背を丸くして働いているのが見えた。
 自分だけが何もしていない気分だった。

 土曜日になると、TS-Wordの販売が好調だという状況がはっきりしてきた。販売宣伝部の松嶋の報告では、売切れの店が続出していて、今、その対応に追われているとのことだった。それに伴い、オペレーターにかかってくる電話の数も増えた。

 真理子は出勤前と退社後に病院に寄った。
 富岡と顔を合わせても、何も話すことがなかった。富岡は喉を痛めているので話せなくても、真理子が富岡に話しかけても何も反応がなかったので、ただ見ているだけだった。
 つやつやとした富岡の顔は、まるで若い頃の顔の仮面を被っているように見えた。それだけに、真理子の中には、果たして自分が今見ている富岡は本当の富岡なのだろうか、という疑念が湧いてきた。