小説「僕が、剣道ですか? 5」

三十六
 よく眠った。朝、起きた時の気持ちが良かった。
 風車も起きていて、廊下に出ると朝の挨拶をした。
「今日もいい日ですな」と風車が言うと、僕も「まことに」と応じた。
 顔を洗って戻ると、朝餉の用意がしてあった。
 おかずは、煮魚に卵焼きだった。それにご飯と味噌汁と漬物が付いていた。
 卵焼きはきくがききょうに食べさせていた。
 今日も沢山食べた。
 おひつが空になった。

 朝餉を済ませると、宿を出た。
 少し行くと、川に出た。街道は川沿いに続いていた。
 そこを台車を押して、僕は歩いた。.
 
 しばらく行くと、橋が見えてきたが、そこに対岸にもこちら側にも人だかりができていた。
 末尾の者に「どうしたのですか」と風車が声をかけた。
「どこの者か知りませんが、橋の向こう側に陣を張っている者たちがおりまして、通れないのですよ」と言った。
「ここは天下の大道ですよ。陣を張ることなど許されるはずがない」と風車がその男に言うと、「そうなんですよ。だから、番所から役人が来て、説得しているようです」と言った。
 僕には、橋の向こう側に陣を張っているのが、公儀隠密だということが分かった。それにしても、隠密が公然と人前に姿を現すとは、よほど切羽詰まっているということだった。
 僕を待ち受けていることは明らかだった。
 あの橋を渡らなければ、江戸には入れない。
 ならば、排除するしかなかった。
「風車殿」と僕は風車を呼んだ。
「何ですか」
「あの橋の向こうにいるのは、公儀隠密たちです」と言った。
「公儀隠密」
「ええ」
「でも、公儀隠密なら、ああも公然とは陣を張ることはしないでしょう」と風車は言った。
「そうせざるを得ないところまで、相手も追い込まれているのです」
「鏡殿を狙っているのですか」
「ええ」
「どうします。見れば鉄砲隊もいますよ」
「そのようですね」
「そのようですね、って他人事のようじゃあないですか」
「他人事ではありませんが、鉄砲隊なんて何人いても同じことですよ」
「そうなんですか」
「はい」
「しかし、どうしたもんだろう。あの橋を渡らなければ、江戸には行けませんよ」
「渡ればいいでしょう」
「どうやってです」
「向こう側にいる者たちを排除すればいいだけのことです」
「かなりの多くの人数がいますよ」
「ただ、人がいるだけで無駄なことです」
「鏡殿があの者たちを排除、つまり、斬るということですか」
「ええ、そうなります」
「そんな無謀な」
「無謀でも仕方ありません。相手も非常手段に出ているのですから」
「どうすればいいのですか」
「これから私は橋を渡り、向こうの連中を斬ってきます。その間、風車殿はここにいて、きくとききょうを守っていてください」
「それはお引き受けもうしたが、それでは鏡殿が」
「私のことは心配いりません。あの者どもは私にかすり傷を負わせることもできないでしょう」
「そうですか。わかりました」
「決して、ここから近づかないように。鉄砲隊がいるのです。流れ弾に当たらないように注意してください」
「ええ、それは承知しました」
 僕はきくにも言い聞かせた。
「わかりました。きくはここで待っています」と言った。
「では、行ってくる。台車を頼む」と僕は言った。
「はい」

 僕は人だかりを分け進んでいった。
「向こうには鉄砲隊がいるぞ。流れ弾に当たらないように離れているんだ」と僕は叫んだ。
 橋の近くにいた者は、すぐ様下がっていった。
 橋の袂は、僕だけになった。
 向こう側から「鏡京介か」と言う声が飛んできた。
「そうだ」と叫ぶと「役人はどいていろ」と言う声がして、鉄砲隊が一斉に前に出て来た。そして、銃口をこちらに向けた。
 驚いた役人は川に飛び込んだ。
 僕は橋を走りながら渡り、時を止めた。
 鉄砲隊が打つ前だった。片膝をついて、鉄砲を向けている者たちの元に行くと、定国を抜き、鉄砲を避けるように背を低くして、鎧の上からその腹を切っていった。鎧を着ていても羊羹を切るように楽に腹を切れた。十二人がいた。その後ろに控えていた鉄砲隊の腹も切り裂いていった。
 その次は弓矢隊がいた。十五人だった。まだ弓は構えていず、ただ、立っていた。それらの者も腹を切り裂いていった。ただ定国を向けて、横に走るだけだった。それで、全員の腹を切り裂いていった。
 次は槍部隊だった。十人が二列になっていた。彼らも槍を立てたままだった。それらの者たちの腹も簡単に切り裂くことができた。
 残るは、その後に控えていた公儀隠密の面々だった。何十人といた。百人は軽く超えていただろう。
 僕は彼らの腹を切って切って切り裂いていった。
 数を最初は数えていたが、二百を超えたところで諦めた。
 多分、二百五十人ぐらい斬ったことだろう。
 そして、残った者がいないかと周りを見回すと、橋の側に首領らしき者がいるのが分かった。
 その者は急ごしらえの腰掛けから立ち上がっていた。そして、その両側に小姓が付いていた。僕は、その小姓の腹を刺すと、立ち上がって様子を見ようとしている者の顔を見た。年をとっていた。すぐ様、腹を裂いた。
 そして、その者の着物で定国の刃の血を拭うと鞘に収めた。
 それから、その者だけの時間を動かした。
「うう」と呻きながら、その者は跪いた。
 僕はそいつのを髪を掴んで、顔を上げさせた。
「見ろ。お前の部隊が全滅した姿を」と言った。
「鏡京介か」
「そうだ。お前たちが恐れていた根来三兄弟と同じ技が、私にも使えるのだよ」と言った。
「躰を動かなくすることができるのか」とその者は言った。
 なるほど、特定の者の時を止めるというのは、その者を動かなくするように見えるものなのだということに気付いた。
「私のはもっと強力だがな」と言った。
 もう声が相手に届いているのかは分からなかった。髪から手を離した。その者は横たわった。そして、少し呻いた。