小説「真理の微笑 夏美編」

十六-2

 三番目の証人は、あけみだった。
 証人席に立つと弁護士から「お名前は」と訊かれたので、「あけみで~す」と答えたら、傍聴席から、微かに笑いの声が上がった。
源氏名はいいですから、本名を答えてください」
「浅井さやかです」
 人定質問が終わった後で、「あなたはクラブ楓のホステスをしていますね」と弁護士が訊いた。
「はい」
「そこで富岡修さんと度々会っていますね」
「はい」
「その富岡修さんから、何か変わったお願い事をされた事はありませんか」
「変わったお願い事ね、例えば、セーラー服を着てくれとか」
 これには傍聴席も笑った。
 弁護士も慌てて「そういう意味じゃなくて、何か特別な用件を頼まれなかったかと訊いているんです」と言い直した。
「あっ、わかった。北さんの事ね」
「そうです。北村敬一さんの事です。北村敬一さんは、当時(株)TKシステムズの専務でした」
「それなら、頼まれたわよ」
「どんな事ですか」
「あそこに座っている修さんに北さんを誘惑してくれって頼まれたの」
 あけみは振り向いて高瀬を指さした。
「あそこに座っているのは、修さんではありません」
「え~。だって、修さんでしょ」
 あけみはもう一度被告人席を見て「修ちゃんよね」と言った。傍聴席が再び笑った。
 裁判長が「証人は質問された事にだけ答えてください」と言った。
「は~い」
「その富岡修さんから北村敬一さんを誘惑してくれと頼まれたのは、いつ頃ですか」
「いつだったかなぁ。多分、二年ぐらい前の夏頃だったと思うわ」
「あたし、北さんはタイプじゃないから断ったんだけれど、修さんのたっての頼みだというんで引き受けたの。あたし、お金にも弱いし」
「それでどうしたんですか」
「北さんに酒を飲ませて酔わせたわ。北さんは、お酒には強くなかったわね。ある程度飲んたら、眠ってしまうの。店に置いておく事もできないから、ホテルに連れていって、朝まで寝かせた事もあったわ。その時は、すっかり、あたしと関係を持ったと思い込んだに違いないわね。それから、北さんは、すっかりあたしにのめり込んでいったわね。何度もクラブに来たもの」
「そう何度もクラブに来られるほど、北村敬一さんは給料をもらっているように見えましたか」
「まさか。クラブの料金は高いのよ。北さんの給料だけで、ああ何度も来られるものじゃないわ」
「じゃあ、どうしたんですか」
「修さんが北さんにお金を渡していたわ。最初は北さんは断っていたけれど、その時、修さんは北さんの胸ポケットに突っ込むように無理にお金を渡していたわね。そういう事が何度かあって、そのうちに、北さんも黙ってお金を受け取るようになったというわけ」
「お金を受け取った北村さんはどうしました」
「北さんをホテルに連れていって朝まで寝かせた時に、あたしと寝たと思っているから、その後、何度も誘ってきたわ。でも、あたしはその都度、はぐらかしていたの。だって、北さんと寝るのは嫌だったんだもの」
 法廷内はこの時も笑いが起こった。
「それで……」
「年が明けてすぐの頃だったと思うんだけれど、北さんから真剣にしらふの時に抱きたいってお願いされたのよ。これにはあたしも困ったのよ。何とか断る口実を見つけ出そうと思って、こう言ったの。今のアパートからマンションに引っ越したいから、百万円出して欲しいって。そうしてくれたら、寝てあげるって。百万円なんて、北さんに用意できないのはわかっていたから、断るためにそう言ったの。それなのに、お金の事はなんとかするから、って聞かないのよ。あたし、困っちゃって」
「それでどうしたんですか」
「修ちゃんに相談したの。そしたら修ちゃんは嬉しそうに笑って、彼のしたいようにしてやれよ、と言ったの。北さんには修さんがお金を渡すからって言って。それで北さんと寝たわ。修さんとの約束通りに。でも、北さんから百万円を受け取る前に、北さんが交通事故で死んだ時は、びっくりしたわ」
「じゃあ、百万円は受け取れなかったんですか」
「いいえ、ちゃんともらったわ、そこにいる修さんに」
 あけみは証人台から被告人席を見て言った。
「つまり、北村敬一さんは富岡修さんに買収されていたという事になるんじゃないですか」
「そうなんじゃないの」
「それは北村敬一さんがTK-Wordのプログラムを、富岡修さんに渡していたという事なんじゃないですか」
「そんなこと、あたし知らないわよ。でも、あの修さんが何もなくてお金を渡すなんて事はないわね」
「わかりました。ありがとうございました。以上です」
「裁判長」
 検事側から声が上がった。
「証人に質問があるのですが、いいですか」
「どうぞ」
「今、証人は百万円は被告人にもらったと言いましたよね。それは本当ですか」
「ええ、あたし、嘘なんか言わないわ」
「でも、被告人は記憶を失っていたんですよね。あなたとの約束も忘れていたんじゃないんですか。というよりも、被告人は富岡修さんじゃないわけだから、あなたと約束していたという事もなかったわけじゃないんですか」
「そんな事あたし知らないわよ。とにかく、修さんは最初は忘れていたわよ。あたしが誰かさえもわからなかったぐらいだもの」
「それはそうでしょうね。会った事ないはずだから。それならどうして……」
「そこにいる修さんに事情を話したのよ。そしたらわかってくれて百万円を渡してくれたわ」
「もう一度言いますが、被告人席にいるのは、富岡修さんではなく、高瀬隆一です。その彼が百万円をあなたに渡すのは、おかしな話じゃないですか」
「おかしな話じゃないわ。あそこにいるのは修さんよ、だって、あたしにはわかるんだもの」
「どういう事ですか」
「ここでそれを言えと言うの。男と女の事だからわかるでしょ」
 この時、傍聴席がざわめいた。検察側はまたしても失態を犯したのだった。
「いえ、結構です。以上です」
「裁判長」
 今度は弁護側が声を上げた。
「証人に質問してもいいですか」
「どうぞ」
「証人は、被告人に何回か会っているんですか」
「ええ、毎週のように会っていたわ」
「それはどこでですか」
「病院よ。入院している時」
「その間、被告人を富岡修さんだと思っていたわけですね。先程、言われた理由で」
「そうに決まっているじゃない」
「ありがとうございました。以上です」
 この弁護側の質問は、高瀬隆一にとってより有利な証言を引き出した事になる。高瀬隆一が記憶喪失になっている間、富岡修だと思い込んでいた傍証になるからだった。

 次回の法廷は五月に開くことになった。