小説「真理の微笑 夏美編」

十五-2

 次に証人席に呼ばれたのは、富岡修の妻、真理子だった。真理子が傍聴席から立ち上がった時、ほう、という響めきが起こった。
「証人の名前を言ってください」
「富岡真理子です」
 証人の人定質問が終わった後で、「証人と被告人との関係は」と弁護士が訊いた。
 この質問に真理子はしばらく沈黙した。裁判長に「証人、お答えください」と促されて、ようやく真理子は「息子の父親です」と答えた。この答に傍聴席にいた何人かの記者は部屋を飛び出していった。これまで真理子は赤ちゃんがいる事を隠し続けていたからだった。
 これには検事も驚いたようだった。
「被告人と会ったのは、どこでいつですか」
「病院です。最初は茅野の病院でした。七月二日の事です。それから東京のある大学病院に転院しました」
「病院にいる時から、自宅に帰られてからも、ずっと被告人のことを富岡修さんだと思っていましたか」
「そう思っていました」
「別人だとは思いませんでしたか」
「いいえ」
「被告人は、あなたのご主人を殺した人ですよね」
 証人は頷いた。
 検事は「証人は頷いた」と言った。そして「そんな人と暮らしていて違和感はありませんでしたか」と続けた。
「いいえ」
「本当ですか」
「そうでなければ、赤ちゃんを産んだりはしませんわ」
「そうなんですか」
「ええ」
 検察は、真理子が高瀬の子を産んでいることを見落としていたのだ。大変な失態だった。そうでなければ、真理子を追求していけば、高瀬の尻尾を掴む事ができると思っていたのだ。事前に真理子に会った時も赤ちゃんの話は出ていなかったからだ。
「被告人が逮捕されてから、被告人をご主人を殺した犯人として憎いと思った事はありませんか」
「どういう意味でしょうか」
「だから、あなたが暮らしていた高瀬隆一はあなたのご主人を殺した犯人ですよね。憎いとは思わなかったですか」
「何をおっしゃっているのか、わかりません。わたしの主人はあそこにいますもの」と振り向いて被告人席を指した。
「証人は被告人を指さした」と検事は言った後、これ以上、真理子を追求しても無駄だとわかったので「以上です」と言った。
「裁判長、弁護側からも証人に確認したい事があります」
「どうぞ」
「検察からの質問にもありましたが、あなたは富岡修さんを一度も別人だとは疑った事がありませんか」
「何度も言いますが、ありません」
「それでお子さんをお産みになったんですね」
「そうです」
「今でも被告人を愛しているんですね」
 この質問には真理子は答えなかった。
「以上です」と弁護側も言った。
 検察側の証人は被告人と真理子の二人だけだった。
 どっと記者たちが飛び出していった。

 次回の公判期日は年を越した二月下旬になった。