小説「真理の微笑 真理子編」

四十六
 十一月に入ると、真理子は毎朝、高瀬の朝食が終わる午前八時半頃に病室を訪ね、何か必要なものがあるかどうかを訊いた。しかし、本当は病室を出る時にする高瀬とのキスを求めていたのかも知れなかった。
 新しい会社に移ってからは、時折、思い出したように各部署を回るほかは、することがなかったからだ。他の社員たちは黙々と仕事をしているのに、自分だけが社長室で何もしないでいる。いや、何もしないわけではなかったが、ただ各部の部長が持ってくる書類に、一通り目を通して判を押して渡すだけだった。その書類の内容も半ばわからなかった。
 高瀬とするキスは、そんな会社に向かう元気をもらうためだった、真理子はそう感じていた。

 十二月になった。明日は、高瀬の退院の日だった。
 五ヶ月に及ぶ入院だったから、病室には多くのものが溢れていた。それらを真理子は一週間かけて自宅に運んだ。
 明日は退院するので会社に来られないことを滝川に伝えると、午後五時に会社を出て、すぐに病院に向かった。
 すでに、昨日確認済みだったが、明日、持ち帰る物や高瀬の着る服を点検した。
 その間に、高瀬は夕食が運ばれてきたので食べていたが、真理子はシャワー室を見たり、クローゼットやセーフティボックスの中を見たりしていた。
 午後七時頃に主治医の中川が病室に来て、現状と退院後のことについて、説明をしに来たのだった。
 内臓の数値もMRIの画像も問題はなく、両足の麻痺は残るが、松葉杖を使えば少しの距離を移動するのには支障ないだろうという話だった。
 中川医師が病室を出る時、真理子は「お世話になりました」と深々と頭を下げた。
 病室を出る時、真理子は高瀬とキスをした。いよいよ、明日から自宅での高瀬との生活が始まるのだと思うと、真理子は感慨深かった。

 十二月二日、土曜日。退院の日が来た。
 午前八時に病室に入ると、高瀬は最後の病院食を食べているところだった。
 その間に、真理子は荷造りをした。
 朝食を食べ終えた高瀬が、松葉杖をついて洗面台まで行くと歯を磨いた。その歯ブラシと歯磨き粉をビニール袋に入れると、ショルダーバッグの中に収めた
 パジャマを脱いだ高瀬に、新しいワイシャツを渡すと高瀬は自分で着た。ズボンは手伝って穿かせた。靴下を履かせて、靴を取り出したところで、真理子はしまったと思った。靴も新しいものを買えば良かったと思ったのだった。家を出る時は、急いでいてそこまで頭が回らなかったが、真理子が鞄から取り出して高瀬に履かせようとしている靴は、よりにもよって別荘から持ってきた物だったのだ。
 富岡の靴は、サイズが合っていたのか、高瀬の足にすんなりと入った。
 午前九時に、一階の入退院受付の窓口で、入院費の精算を済ませた。真理子は高瀬を介護タクシーに乗せると、自宅に向かった。途中で店を開いている靴屋を見かけたので、そこでタクシーを止めてもらった。
「どうしたの」と訊く高瀬に、真理子は「靴が合わないの」と答えた。高瀬は肝を冷やしたことだろうと、真理子は思った。
 介護タクシーに待ってもらって、靴屋の中に松葉杖で入っていった。椅子を用意してもらい、高瀬を座らせると、高瀬の足のサイズを測ってもらい、適当に靴を持ってきてもらった。高瀬が三足選ぶとそれを買って、タクシーに戻った。履いてきた靴は捨ててもらった。

 自宅に着いた。運転手に車椅子を降ろしてもらい、それに高瀬を乗せると、真理子が車椅子を門から玄関まで押した。
「どう、懐かしい」
 真理子は、高瀬がこの家を知っているはずがないのをわかっていて、冗談めかして訊いた。
「いいや」と高瀬は首を左右に振った。
 真理子は、観音開きに改造された玄関の戸を、高瀬をくぐらせ、用意していた室内用の車椅子に乗り換えさせた。
 真理子は「あなたの書斎に行ってみる」と訊いた。高瀬が「うん」と答えた。
 階段は玄関の右手だった。そこの段違いの二重になっている手すりをつけ、昇降用の椅子を取り付けたのだった。
「これね、椅子式階段昇降機って言うの」と真理子は説明した。
「これが高かったって言っていたやつか」と高瀬は言った。
「そう。これが一番高かったわ」
 真理子は高瀬を支えて、その昇降機の椅子に座らせた。
 そして真理子は「そのボタンを押して」と言った、
 高瀬は右手にあるボタンを押した。
 椅子は静かに上がっていった。真理子は椅子について、階段を上っていった。昇降機は階段の踊り場でゆっくりと曲がり、また上がっていった。二階に着くと、止まった。そこで真理子も止まった。
 二階にも用意してあった車椅子に真理子は高瀬を支えて座らせた。
 真理子は車椅子を押して突き当たりのドアに向かった。
 中は広い書斎になっていた。車椅子のままデスクについた。
 高瀬は珍しそうにデスクのあちこちを見ていた。
 左の上の引出しには鍵がかかっていた。開けようとして開かないので高瀬は困っていた。それを見た真理子は、キーケースを高瀬に渡した。それも富岡の別荘から持ってきたものだった。
 ペン皿の下にある通帳を、高瀬は取り出していた。そこには紙が挟まれていた。その紙を高瀬が開いて見ているので、真理子は「それはあなたが入院中に必要な費用を通帳から引き出したメモです」と言った。
「そうか」と高瀬は言いながら、今度は、スケジュール帳を取り出して開いて見ていた。
 一通りデスクの引出しを開け終えると、高瀬は部屋の隅にあった金庫の方に目を向けた。
 真理子が「金庫の方に行く」と訊くと「うん」と頷いたので、真理子は車椅子を金庫の前まで押していった。
 金庫は、鍵とダイヤル式の両方でロックされていた。
 鍵を回して開けようとしたが、金庫は開かなかった。ダイヤルの番号を合わせなければ、開けないのだ。
 高瀬は「開けられないな」と言った。
「やっぱりダイヤルの方は覚えていないのね。すぐに必要なものある」と真理子が訊くと、「どうだろう。見てみないとわからない」と高瀬は答えた。
「だったら、鍵屋さんを呼ぶわね」
 高瀬が「そうだな、そうしてくれ」と言った。
 真理子はポケットから鍵屋の電話番号をメモした紙を取り出した。高瀬に金庫のダイヤル番号がわかるはずがないから、こうなることを真理子は予想して鍵屋の電話番号を調べてメモしておいたのだった。デスクの上の受話器を取って鍵屋に電話をした。
「すぐに来るそうよ」と言い、時計を見た。午前十一時だった。