小説「真理の微笑 真理子編」

九-1
 家に戻り、ハンドバッグから指輪を取り出して、何度も見た。そして自分がしている結婚指輪とも合わせて見た。しかし、何度見ても、どこから見ても、これは富岡がしていた結婚指輪に違いなかった。
 ということはICUにいる男は富岡修であると認めないわけにはいかなかった。
 だが、手帳や革靴や服や免許証などやアルコールのことが、謎のまま残っている。こればかりはどう考えても説明がつかなかった。
「いずれわかる時が来るわ」
 真理子はそう声に出して言ってみた。そうすると、不思議なもので本当にそうなるような気がしてきた。
 考えてみれば、ICUにいる男は、今は意識不明の状態だが、容態が急変するかも知れないし、しなければ、いずれ意識を取り戻すだろう。いや、このまま意識がない状態のままかも知れない。意識がない状態のままなら、半分死んでいるのも同然のわけだし、意識が戻ったとしたら、数々の疑問は本人が晴らしてくれるだろう。
 とにかく時が来るのを待つしかない。これが真理子が出した結論だった。
 そうであれば、もうあれこれ考えるのは、無駄なことだと思えてきた。先に進むしかないのだ。
 すでに運命は自分の手で変えて動き出しているのだ。
 そう思うと、真理子はわからないことに拘ることは止めることにした。
 運命を変えたのであれば、それに抗うのではなく、その運命にうまく乗っていくしかないのだ。
 そう思った時、心の負担が軽くなったような気がした。
 病院に出かける前に、保険会社に電話しておいたことが、さらに心の負担と、そして経済的なことの不安を軽くしてくれた。
 普段着に着替えると、急にお腹が空いてきた。時計を見ると、午前十一時を回っていた。病院から戻ってきたのは、一時間ほど前のことだったから、随分と長い時間、考えていたことになる。
「馬鹿みたい」
 真理子は自分らしくないぞ、と自分を叱った。
 冷蔵庫を開けてみた。すぐに食べられそうなものはサラダぐらいしかなかった。しかし、サラダだけで満足する感じでもなければ、何か作ろうという気はしなかった。
 これから買物に出かけるのも面倒だった。
 居間に戻って、電話の受話器を取った。そして、寿司屋にダイヤルして、特上を一人前頼んだ。

 寿司を食べ終えると、富岡の手帳を開きながら、明日のことを考えた。
 まず、病院に寄り、富岡の容態を訊き、特に変わりがなければ、そのまま会社に向かうつもりだった。
 富岡の手帳には、自分にはわからない記号や数字がいっぱい書いてあった。富岡の手帳を直接、高木に見せるつもりはなかったが、これらの記号や数字の意味は、高木ならわかるかも知れなかった。だから、メモ用紙に書き写したものを高木に見せて、その意味を教えてもらうことにした。もし、高木でもわからないことなら、それはそれで仕方ないと思った。
 それから、今後のスケジュールについても高木と相談する必要があった。
 今の富岡の状態ならすぐに退院することはできないだろう。良くなるとしても数ヶ月は入院することになると思っておいた方がいい。そうであれば、その間のことをどうするのか、決めなければならない。
 真理子は自分の手帳に、明日すべきことを箇条書きにして書き込んでいった。
 こうすると、何がすぐに必要で、何が後回しにできるかがはっきりしてくるのだった。
 先週の土曜日までは普通の主婦だったのが、今や社長代理のようなことをしている。この一週間ほどの間で、ものすごく人生が変わったことを意識しないではいられなかった。
 しかし、考えてみれば、由香里を尾行し始めた時から、人生が変わっていたのかも知れなかった。もうその時には普通の主婦ではなくなっていたのかも知れなかった。そう真理子は思った。
 時計はお昼を回っていた。
 真理子は明日から会社に出るのが日課になることを意識した。そうすれば、当然着ていくものにも気をつけなければならなかった。会社で働くとなれば、そう派手な格好をしている訳にはいかなかった。といって、仕事用のスーツ類は何着もというか、ほとんど持ってはいなかった。
 毎日、同じスーツで会社に行くのは、真理子の美意識では恥ずかしかった。スーツを買いに出かけようと思った。