三十六
真理子が会社に行くと、高木と田中を社長室に呼んだ。
二人が入ってきて、椅子に座ると、早速、真理子が切り出した。
「昨夜、富岡と話したんだけれど、会社移転しようっていうことになったの」
「会社移転ですか」
二人同時に、椅子から飛び上がるように言った。
「そうよ」と真理子は言いながら、社長室の外の方を手で示して、「もう、いっぱいじゃないの」と続けた。
「そうですが、会社移転となると結構大変ですよ」と高木は言った。
「確かにそうだと思うの。でも、ここじゃあ、もう手狭でしょ」
「そうですね。TS-Wordが売れている今が、会社移転のいい時期かも知れません」と田中が言った。
「それでね、会社移転について、素人のわたしにもわかるように説明して欲しいの」
真理子への説明は、意外に時間がかかった。それだけ真理子が突っ込んだ説明を求めたからだった。候補地についての考えはあるのかとか、これから人員を増やした場合に対応できるのかとか、とにかく思いつくことを二人にぶっつけてみた。当然、高木も田中もすぐに答えられるものではなかったので、話し合いは、午前中では終わらず、午後三時から再開することにした。
午後三時からの話し合いでは、二人は山積みの資料を前に、真理子に説明をした。四時間ほどがあっという間に過ぎ、午後七時になっていた。
真理子は「今、話し合ったこと、すぐに主人に伝えたいので、病院まで付き合ってもらえる」と言った。
「わかりました」
「それと、西野君、まだいるかしら」と真理子が言った。
高木が「いると思いますけれど……」と言うと、「バグの件も伝えたいの」と真理子は言った。
三人を連れて病室に入ったのは、午後八時近くになった頃だった。
すぐに高木が富岡のベッドに駆け寄り、「ああ。社長、こんなになって」と言った。
富岡がわからないようなので、真理子が「経理の高木さんよ」と言った。
高木は「社長、わかりますか、私が……」と言ったが、富岡は「いいや」と言った。
高木は富岡のしゃがれた声に驚いたようだった。真理子は「記憶喪失なの。それに喉も痛めているの」と答えた。
「そうなんですか」と真理子に言った後に、「聞きましたよ、会社移転の話」と高木は急き込むように言った。
「いいじゃないですか。今の所だと手狭だし、不便だし。前から社長、おっしゃってましたよね、ヒット商品出したら、移ろうって。ちょうどいい機会だと思いますよ」
高木は田中を横に呼び寄せると、「田中も喜んじゃって……」と言った。
田中は、「痛いですよ、高木さん」と言った後、「でも、いい決断だと思いますよ。トミーワープロが売れている今がチャンスだと思いますね」と言った。
「そうか。他の人たちも同意見だと考えていいんだね」と富岡はしゃがれた声で言った。
「ええ」と高木と田中が同時に言った。
富岡は「分かった。だったら、物件探しから進めてくれ。早い方がいい。今年中に移転するぞ」と言った。
高木は「急ですけれど、できないこともないでしょう」と言った。
「いくつか物件が見つかったら、知らせてくれ」
「わかりました」と二人が言うと、富岡は「そこの……」と病室の隅にいた社員に声をかけた。
真理子が「西野さんよ」と言った。
「西野君か。確か、バグの件だったよね」
「はい。修正プログラムは作りました。該当する部分を含めた一部を削除して、そこを書き換えるプログラムになります」
「デバッグは大丈夫なんだね」
「ええ、大丈夫です。何度も確認しましたから。今、修正プログラムを入れたフロッピーディスクを制作中です。今週中にはできます」
そう西野が答えると、田中が「修正プログラムの方は、雑誌の付録に入れてもらえるように手配しました。フロッピーディスクを付けていない雑誌には広告で修正プログラムの入手方法を載せました」と言った。
「そうか」
真理子に「では……」と言って、帰ろうとしていた三人に「ちょっと待ってくれ。今、新製品の開発はどうなっている」と富岡が尋ねた。
三人は顔を見合わせた。
「新製品ですか」
経理の高木が訊いた。
「そうだ」
「グラフィックソフトと文書変換ソフトの方は順調に進んでいますよ」
「それじゃない」
「もしかして、カード型データベースのことですか」
「そうだ」
それに対して西野が「それは社長案件で、本来ならトミーワープロが売り出されて、その様子をみて半年後ぐらいに発売する予定になっていましたが、事故に遭われたので全く進んでいません」と答えた。
「β版のようなものはあるのか」
西野が「ありません」と言った。
「分かった。今、私はこんな状態なので、当面、カード型データベースのことは凍結にする。いいな」と富岡が言うと、三人は「わかりました」と答えた。
「今は、会社の移転とトミーワープロのことに集中しよう。それからグラフィックソフトと文書変換ソフトはそのまま続けてくれ」
「はい」と言って、三人が病室から出て行くと、富岡はベッドに躰を横たえた。
「疲れたでしょう」と真理子が言うと、富岡は頷いた。
「遅くなってごめんなさいね」と言った真理子は、富岡にキスをした。