小説「真理の微笑」

五十一-1
 十二月になった。
 カード型データベースソフトのβ版は各出版社などに送られて、概ね好評だった。メニューの表記間違いなどの細かなバグはあったが、データベースの根幹に関わるような決定的なバグは見つからなかった。もう少し様子を見て、来年の五月頃をめどに発売する事にした。
 そして、いよいよ私の退院の日が来た。
 昨夜、午後七時頃に担当医が病室に来て、現状と退院後の事について、話をしていった。真理子も一緒だった。
 内臓の数値もMRIの画像も問題はないとの事だった。両足の麻痺は残るが、松葉杖で少しの距離を移動するのには、支障ないだろうという事だった。
 声の方はほとんど違和感なく話せるようになっていた。まだ、特定の音は発音しにくかったが、問題になるほどではなかった。私は富岡の声を知らないので、違和感なく話せると言われても、複雑な気持ちしか持てなかった。私は私の声しか出せないのだ。だから、私はまだ喉の調子が悪い振りをした。あえて、普通にしゃべる事をしなかったのだ。
 真理子が近くにいるときには、喉に悪い事を承知の上で、やはり囁くように話す事が多かった。それが秘密の会話をしているように思えるらしく、真理子もそう話される事を好んでいるように思えた。
 一階の入退院受付の窓口で、入院費の精算を済ませたら、私と真理子は介護タクシーで自宅に向かった。
「どお、懐かしい」
 大きな家だった。私の自宅とは比べものにならなかった。
 運転手に車椅子を降ろしてもらい、それに私が乗ると、真理子が後ろから、門から玄関まで押してくれた。門から入った所には、赤いポルシェが止まっていた。そして、もう一台分の車の空きがあった。そこに私が事故を起こした車が、以前は止まっていたのだろう。
 観音開きに改造された玄関の戸をくぐり、そこに用意されていた室内用の車椅子に乗り換えた。
「あなたの書斎に行ってみる」と真理子は訊いた。
「うん」
 玄関の右手に階段があった。そこの段違いの二重になっている手すりの部分に椅子のようなものが付いていた。
「これね、椅子式階段昇降機っていうの」
「これが高かったって言っていたやつか」
「そう。これが一番高かったわ」
 私は真理子に支えられて、その昇降機の椅子に座った。
「そのボタンを押して」
 真理子に言われて、右手にあるボタンを押した。
 椅子は静かに上がっていった。階段の踊り場でゆっくりと曲がり、また上がっていった。二階に着くと、止まった。
 そこにも車椅子が置いてあった。一階と二階で、二つの車椅子を用意してあったのだ。
 やはり真理子に支えられて車椅子に座った。
 その車椅子を押してもらって突き当たりのドアに向かった。
 中に入ると広い書斎だった。車椅子のままデスクについた。両サイドに引出しがあった。
 右の上の引出しを開けてみた。ペン皿が引出しに引っかけられるように渡してあって、その中に万年筆やポールペン、ホッチキスなどがあった。その下には書類が見えた。封筒や葉書類が多かった。
 次の引出しを開けると、封筒に入れられた書類が幾つも重なっていた。
 一番下の引出しは、縦に仕切られていて、背表紙が見える状態でファイルが入れられていた。
 左の上の引出しには鍵がかかっていた。
 開かないので困っていると、真理子がキーケースを渡してくれた。
 私はその中のこれだと思うキーを差し込んだ。
 中には、やはりペン皿があったが、その中には、ハンコ類が入っていた。
 ペン皿の下の方には、通帳類と大判のスケジュール帳が見えた。通帳には何やら紙が挟んであった。その通帳を取り出して紙を開いてみた。メモだった。日付と金額と支出目的がびっしりと書かれていた。
「それはあなたが入院中に必要な費用を通帳から引き出したメモです」と真理子は言った。
「そうか」
 お金の管理は、すべて富岡がしていて、それも相当厳しかったんだなという事が、このメモを見ていてわかった。そうでなければ、あれほど女にお金を使う事もできないか、とも思った。
 今度は、スケジュール帳の方を取り出して開いてみた。持ち歩いている手帳とは違い、午後五時以降のところにイニシャルは一つも書かれていなかった。
 大判のスケジュール帳を取り出すとその下に名刺帳も見えた。ここにはクラブの名刺も入っているんだろうな、と想像できた。
 次の引出しは、契約書の類いのものがいくつもファイルされていた。それほど重要なものではなさそうだった。なぜなら部屋の隅に大きな金庫が見えたからだ。
 一番下の引出しは右と同じように背表紙が見える状態でファイルが入れられていた。
 それから金庫に移動した。鍵とダイヤル式の両方でロックされていた。
 鍵は回せたが、ダイヤルの方は、もちろん駄目だった。
「開けられないな」
「やっぱりダイヤルの方は覚えていないのね。すぐに必要なものある」
「どうだろう。見てみないとわからない」
「だったら、鍵屋さんを呼ぶわね」
「そうだな、そうしてくれ」
 私がそう言うと真理子がポケットからメモを出して、受話器を取ってどこかに電話をした。それが鍵屋だという事はすぐに分かった。
「すぐに来るそうよ」
 時計を見た。午前十一時だった。