小説「真理の微笑 真理子編」


 家に着くと、真理子はすぐに寝室に向かい、服を脱ぐとベッドに倒れ込んだ。
 僅か二時間ばかりのことだったが、面会の失礼を詫びることと、来週の面会予約を取り消すことで疲れ切ってしまった。
 話すことはテープレコーダーを回しているように、同じセリフの繰り返しだったが、これが意外にこたえた。
 電話機を見た。留守電を示すランプが点いていないのを知るとホッとした。
 もう午後七時近かった。
 立ち上がったが、食欲はなかった。それでも何か口にしなければと思い、冷蔵庫を開けた。野菜ジュースが目に飛び込んできた。食器棚からコップを取り出すと、野菜ジュースを注いだ。それを飲み干すとお腹がいっぱいになった。
 テレビを点けた。午後七時のニュースが流れた。
 最初のニュースは、今日各地で今年最高気温を示したということだった。最初のニュースがこれなのか、と真理子は思った。実に平和な話題だった。
 まだ早かったが、躰は疲れていた。
 浴槽にぬるめの湯を張り、裸になると浸かった。目を閉じると眠りそうになる。
 今日、何度、夫の事故のことを話しただろうか。詳しい状態を話したのは高木だけだった。土曜日から今日の午前中までのことをかいつまんで話した。それでも顔の形成のことなどは話さなかった。
 明日から、病院だけでなく、会社にも行かなければならなかった。気が重かった。

 午前七時半に目が覚めた。目覚まし時計を止めた。
 シャワーを浴びて、レタスをちぎってサラダを作り食べた。
 ドレッサーの前に座り、化粧をした。今日は病院に寄った後、すぐに会社に向かわねばならなかったからだ。
 病院に行くには派手だが、少し濃いめの化粧をした。
 午前八時になった。家を出て病院に向かった。午前八時半過ぎに病院に着いた。三階に上がり、ナースステーションに向かった。そこにいた看護師に富岡の容態を訊いた。看護師はパソコンを操作して、富岡の情報を探したのだろう。しばらくしてこちらに向かってくると「特に変わりはありません」と言った。「わかりました」と応えてその場を離れた。これだけのために病院に来たことが馬鹿馬鹿しくなったが、それもしょうがないと諦めた。
 車に戻ると会社に向かった。
 会社に着いたのは、午前九時を過ぎていた。受付で高木専務を呼んでもらった。高木はほどなくして来た。
 真理子は高木に自分は何処にいたらいいのか、訊いた。すると高木は「社長室にいてくださいよ。社長代理として働いてもらいますから」と言った。後の言葉は半分は冗談だったが、真理子には冗談に聞こえなかった。
 社長室に入って、椅子に座った。大きくゆったりと座れる椅子だった。椅子が高めだったので、レバーを操作して、自分に合う高さに調整した。
 机の上には大きめのスケジュール帳があった。開いてみると、よくわからない記号がいっぱい記入されていた。
 七月の頁をめくった。七月三日に「TS-Word」と記されていて、そこから矢印が引かれていて、その先には「GO」と書かれていた。
 しばらくして高木が入ってきた。
「早速ですが、重要な案件についてご相談したいんですが」と切り出した。
「何ですか」
「新しいワープロソフトの件です。本来ならば、もう製品の製作を始めていてもいい頃なんですが、社長が事故に遭われてそのままになっているんです」
「そのワープロソフトの製品の製作とは、何ですか」
ワープロソフトをパッケージにするということです」
「つまり、販売できる状態に製作するということですか」
「そうです」
「もういつでも製作できる状態にあるんですね」
「ええ」
「だったら、迷うことはありません。すぐに製作に取りかかってください」
「よろしいんですか」
「ええ。わたしが責任を持ちます」
「わかりました。早速、担当者に指示を出します」
「他には何かありますか」
「ええ、いくつか書類に目を通して頂いて、社長の判がいるんですが、それはまた後にします。とにかくTS-Wordの件が優先事項なので、担当者に伝えます。失礼します」
 そう言って高木は出て行った。
 スケジュール帳のTS-Wordと書かれたところを、真理子は右手の人差し指の先で叩きながら、今の話はこの件のことだったのね、と思った。今日は七日だから、本来なら四日前にGOサインを出していた案件だったのだ。だが、事故に遭って出せないでいたのだ。担当者はやきもきしていたことだろう。
 もう一度、スケジュール帳を見た。さっきのようなわかりやすい表記はもうなかった。 七月は他に大きなプロジェクトはないようだった。
 ただ、「TS-CDB0.53-1」「TS-CDB0.53-2」という表記が欄外に書かれていた。それが何を意味するのかは、真理子には全くわからなかった。
 真理子は机の引出しを開けようとした。左側の一番上の引出しには鍵がかかっていた。右側にも鍵はついていたがかかってはいなかった。そこには、筆記用具などの事務用品が入っていた。二段目の引出しには、書類が袋に入れられて入っていた。一番下の引出しには、背表紙が見えるようにファイルが並んでいた。
 社長室の右手の奥には大きな金庫が見えた。これよりも小ぶりな金庫は自宅の書斎にもあった。
 行ってみて、取っ手を握ったが、当然、金庫は開かなかった。
 デスクに戻って、内線で高木を呼んだ。
「何でしょう」と言って高木は入ってきた。
 真理子は金庫を指さして、「これを開けられるかしら」と言った。
 高木は「ああ、これですね。ちょっとお待ちください」と言って出て行って、すぐ戻ってきた。自分の手帳と合鍵を取りに行ったのだった。
 高木は手帳を見ながらダイヤルを回して、最後に合鍵で金庫の扉を開いた。
「この中には、契約書が入っているんですよ。火事などで燃えるといけないので耐火性の金庫なんですよ」と言った。
「私と社長が鍵を持っていますが、事故の時に無くされたんでしょうか」
「どうなんでしょう。わたしにはわかりません」
「ダイヤルの回し方を控えておきましょうか」
「ええ、教えてください」
 真理子は自分の手帳を取り出して、「右に……、左に……」と書き込んでいった。
「鍵はどうしますか。特殊な鍵なので金庫の製造業者に問い合わせれば、合鍵を作ってもらえると思うんですが……」
「そうしてもらえるかしら」
「わかりました。連絡しておきます」
「鍵ができるまでは、ダイヤルだけで開け閉めします」
「そうですね、それがいいですね」
 そう言うと高木は出て行こうとした。その時、「ああ、そうだ、社長に決裁してもらいたい書類があるんですが、社長の代わりに決裁してもらえますか」と振り向いて言った。
「わたしが決裁していいんですか」
「それはそうなんですが、こんな時ですから」
「それで構わないなら、判子でも何でも押しますよ。ただし、責任は持てませんからね」
「弱りましたね。しかし、他にしようが無いから形式的でいいですから判を押してください。責任は専務である私がとりますよ」
「それならいいですよ」
「後で持ってきますからよろしく頼みます」
 そう言うと高木は出て行った。

 高木が持ってきた書類に一通り目を通して、説明を聞きたいものについては保留して、不審に思わなかったものについては、判を押した。
 それらが終わった頃には退社時刻になっていた。
 判を押したものについては高木に渡して、残ったものについては、月曜日に説明を受けてから判を押すと話した。
 まだ、会社に残っている者もいたが、午後五時を過ぎたので、真理子は高木に今日はこれで帰り明日は休むことを告げてポルシェに乗った。