小説「僕が、剣道ですか? 6」

三十六
 料亭を出ると、夜風が気持ちよかった。
 少量の酒だったが、何だか酔った気分になった。
 風車はみねと手を繋いでいた。
 僕はききょうを抱いていたので、それはできなかった。代わりに、きくが頭を預けてきた。それは少しの間だけだったが。
 ききょうは今日はとても大人しかった。珍しいものを見ているようで、楽しかったのだろう。魚はよく食べた。吸い物もほとんど飲んだ。

 家にはほどなく着いた。
 通用門の鍵を開け、玄関の鍵を開けて中に入った。
 上がり口に、ききょうを置くと、僕はぐったりと座り込んだ。今日は精神的に疲れた。
 しかし、きくや風車、みねが入ってくると、上がり口を塞いでいることもできないので、表座敷に上がった。
 そして、羽織は脱いだ。暑かったからだ。羽織を持って、寝室に行った。そして、袴も脱ぎ、普段の着物に着替えた。
 表座敷に行くと、風車とみねがいた。
 僕が入って行くと、二人は揃って「今日は何から何までありがとうございました」と頭を下げた。
 そして「これから着替えます」と風車が言った。
「そうですか。ゆっくりすればいいでしょう」と僕が言った。
 風車たちは、僕が来るのを待っていたんだということに気付いた。
 僕は湯屋に行って、風呂釜に火をつけた。風呂を焚くのも手慣れてきたものだと思った。

 寝室に戻ると、きくも普段着に着替えていた。ききょうもだった。
 僕はききょうを抱き上げると、「今日は大人しかったな。偉いぞ」と言った。ききょうは、何を言われたかは分からなかったろうが、僕が抱き上げたことで喜んで笑った。
 僕はきくに「今日も大変だったが、明日からも頼む」と言った。
 きくは僕を見て、「わかっていますよ。心配しないでください」と言った。
「そうか。任せるよ」と僕は言った。その後で、蚊帳を吊った。蚊帳の中はききょうの遊び場だった。

 風呂が焚けると、離れに行った。襖の前で、声をかけた。
 風車の「どうぞ」と言う声で、襖を開け、中に入った。蚊帳が吊ってあり、二人は、その外に出て正座していた。僕は足を崩すように言い、風呂が焚けたことを告げた。
「それなら、鏡殿が先にお入りください」と風車が言った。
「だが、今日は特別な日だから」と僕が言ったが、「鏡殿がお先に。わたしたちは最後でいいです」と風車が言った。
「そのことですが」と言う声がしたので、振り返ると、ききょうを抱いたきくが来ていた。離れに入り、座ると、「お風呂の順番のことですよね」と風車が言った。
 きくが「ええ」と言うと、「それは決めておきましょう」と続けた。
 そして「それなら、この家の主である京介様が先に入られ、その後で、風車様のご夫婦が入られればいいと思います。わたしとききょうは最後に入ります」と言った。
「それなら、わたしたちが最後に入りますよ」と風車が言った。すると、きくが「わたしが最後に入るのは、ききょうのおむつなどを洗うためです。洗濯をするので、最後にして頂きます」ときっぱりと言った。
「でも」と風車が言いかけたが、僕が「それまで。きくの言うとおりにしましょう。その方が入りやすいでしょう。まず、私が入って、それから、声をかけますから、風車殿たちが入ってください。そして、きくとききょうが最後に入ることにしましょう。いいですね」と言った。
 風車は頷いた。
「では、私が先に入ります」と言って、きくとききょうを連れて離れを出た。
「きくが来てくれて、助かった」と言うと、「だって、京介様はお風呂が焚けたので、離れに声をかけに行ったのでしょう。どういうことになるのかは、わかりましたわ」と言った。
「そうか」
「ええ。京介様がこの家の主なのですから、先に入るのは当たり前です。今日、風車様が祝言をあげたからといって、それは変わりません。問題はその次ですよね。それなら、わたしが最後に入る方が洗濯などをするので都合がいいのです。ですから、この順番しかなかったんです」ときくが言った。
「分かった」と言うと、僕は風呂に入る準備をして、一人湯屋に向かった。もう、風車と一緒に入ることはないのか、と思うと少し寂しい気もした。

 僕は風呂から出ると、離れに行き声をかけた。中から返事が返ってきた。楽しそうだった。
 風車たちが風呂から出ると、今度はきくがききょうを連れて、風呂に行った。
 一度、ききょうを寝室に連れてきて「見ていてくださいね」と言って、今度は洗濯をしにきくは湯屋に戻っていった。
 きくが湯屋から、寝室に入ってくると、僕は「大変だったね」と言った。ききょうは眠っていた。
「だったら、ご褒美をくださる」ときくが言った。
 僕が頷くと躰を預けてきた。僕はきくの躰を受け止めた。お腹が出ているのが分かった。優しくきくを抱いた。

 夜が更け、きくも眠ったので、時を止めた。
 そして、奥座敷に行った。
 あやめがいた。
「風車様は、ようございましたね」と言った。
「そうだな」
「この家も賑やかになりますわね」
「迷惑か」
「いいえ」
 僕はあやめの髪をたくし上げた。そして、その唇に口をつけた。
 あやめの中に入っていった。しばらくすると、あやめが言った。
「あまり、時を止めていると、困る人たちがいますわ」
 僕が一瞬、何のことだか、分からないでいると、もう一度、あやめは躰を寄せて来て、「一晩中でもこうしていたい人たちがいるでしょう」と言った。
「そうか」と僕は苦笑すると、「今日はこれで引き上げるよ」と言って、寝室に戻った。そして、時を動かした。風車のところの時も動き始めたことだろう。

 次の日、顔を洗って、居間に向かおうとすると庖厨で、「おはようございます」と揃って声をかけられた。
 きくと、その隣にみねが立っていた。みねは、昨日は遅くまで起きていただろうが、今は頑張って朝の庖厨に立っている。その顔には、疲れよりもこれからの生活に向かう輝きのようなものを感じた。
 僕は「おはよう」と返して、台所に立つ二人を見ながら、新鮮な空気を大きく吸い込んだ。