小説「僕が、剣道ですか? 6」

二十九

 風呂は風車と入った。

 風車の足腰がまだしっかりしていなかったことと、前の習慣からだった。ただ、ききょうが一緒に入れないことに駄々をこねた。

 駄々をこねるききょうに、「そんなに私と入りたかったか」と訊いたが、言っていることは分からなかっただろう。

 風車の打撲はほとんど跡が残っているだけに見えた。風呂の入り方もしっかりしていた。

「もう、大丈夫です」と風車は言ったが、「一月は休んでいてもらいます」と僕は言った。

 風車は僕に恩があるから、言い返せなかった。

 みねのことは、風車は何も言わなかったし、僕も訊かなかった。

 おそらくは、心は吉原にもう飛んでいることだろう。

 柳沢道場から、せしめてきた五十両を渡せば、その日のうちに吉原に行くことだろう。だから、一月はお金を風車に渡す気はなかった。もう半月程過ぎているから、後半月ばかりの辛抱だと思った。

 

 夕餉は、茄子とキュウリだらけと言った方が良かった。キュウリはそのまま切った物と浅漬けにした物が出たが、食べる方にすれば同じ物を食べている感じだった。

 茄子は揚げた物と焼いた物と味噌汁にした物が出た。

 揚げ茄子は好きだった。胡椒を買ってきてあったから、振りかけて醤油で食べた。美味しかった。でも、毎日、これだとききょうが茄子やキュウリ嫌いにならないかと、心配になった。

 その中でも、今日買ってきた魚の焼き物は、買ってきて良かったと思った。味が違うので、食が進むのだ。

 昔の人が、骨だけを残して、頭から皮まで食べるというのは、よく分かることだった。それだけ、魚は貴重だったし、大事に食べられたのだ。

 風車がお代わりをした。食が進むということは、それだけ回復してきているということだった。

 

「もう、しばらくしたら一局打ちましょうね」と僕が言うと、「今でも構いませんよ」と風車は言った。

「まだ、本調子じゃないでしょう」

「躰の方はそうですが、頭まで鈍ってはいませんよ」と風車は言った。

「それなら、奥座敷の蚊帳も買ってくれば良かった」と僕は言った。実際のところ、寝室と離れの蚊帳で手一杯だったのだが。

奥座敷でなくても、離れで打てばいいではありませんか」と風車が言った。

 確かに、大きな蚊帳を買ってきたから、布団をどければ碁は打てる。

「それなら、奥座敷から碁盤を持っていきますから、待っててください。その前に寝室の蚊帳を吊らなくてはなりませんからね」と言った。

「ゆっくり蚊帳を吊ってください。拙者は待つのは得意ですから」と風車は言った。

 

 寝室に蚊帳を持ち込むと、ききょうが喜んだ。僕が踏み台に乗って、鉤に蚊帳の輪っかをかけるのを楽しそうに見ていた。六箇所、輪っかをかけると、寝室がすっぽりと蚊帳の中に収まった。端が少し、寝室の隅から離れている程度だった。

 そこから、ききょうははいはいをして何度も出たり、入ったりした。そして、蚊帳に掴まって、立とうとした。

「ダメダメ」とききょうを蚊帳から離した。

 きくも来て見ていた。きくは何も言わなかった。楽しそうに笑っていた。

 

 寝室に蚊帳を吊った後で、奥座敷から碁盤を持って、離れに行った。

 風車は起き上がって、待っていた。

 碁は二子で、二局打った。

 最初は、僕が完敗した。二局目も僕の見損じで、大石が取られるところだった。だが、その大石を風車は取らなかった。そのために、三目差で僕が勝った。一勝一敗という結果だった。しかし、二局目は、風車が大石を取ったところで、僕は投げようと思っていた。勝ちそうなところで、風車は僕に勝ちを譲ったのだ。

 僕はそれについては何も言わなかった。

「明日もやりましょう」と言って、離れを出た。

 

 寝室では、きくとききょうが蚊帳の中で眠っていた。今日からは、蚊に悩まされずに眠れることだろう。

 僕は時を止めて、奥座敷に向かった。時を止めているから、蚊には刺されなかった。

 あやめがいたので、近付いて抱き締めた。あやめは僕の胸に顔を埋めた。

 そして、顔を上げて「わたしのことが主様にどう見えているか、わかっただけでも嬉しいです」と言った。

「また、そのことか」

「わたしは自分の姿を見ることができないんですよ」

「そうなのか」

「ええ」

「鏡は見ないのか」

「わたしは、鏡には映りません」と言った。

 なるほどと僕は思った。あやめが鏡に映らないのは、霊には実体がないからだ。だから、僕の心を通してしか、自分を見ることができないのだ。そして、僕を通して、自分を見ることで、僕があやめを美しいと思っていることが、必然的にあやめに伝わってしまう。

「しょうがないな」と僕は言った。

「主様の目を通して、自分を見てもよろしいんですね」

「駄目だと言っても見るだろう」

 あやめは答えなかったが、あやめが嬉しがっていることは分かった。

「今日は、吉原に行ってきたんですね」

「ああ」

「おみねさんっていう人ですか、風車様が思っている人は」

「そうだ」

「良かった」

「どうしてだ」

「だって、おみねさんには、主様は興味を示さなかったでしょう」

 あーあ、そういうことも分かってしまうのか、と思った。

「なぁ、私の……」と言いかけて、あやめが「心を読むな、でしょう。わかっていますよ」と言って笑った。あの笑いは、私の考えることはお見通しだと言っているようなものだった。

 

 次の朝、起きると、踏み台を使って、蚊帳を外した。ききょうは蚊帳に包まって遊んだ。

 そのききょうを抱き上げると、蚊帳を畳んで押入れに入れた。それから、布団も畳んで押入れにしまった。

 顔を洗ってきた後で、ききょうを畑に連れて行った。茄子やキュウリがなっているところを見せるためだった。

 キュウリを触らせたら、その棘に痛がった。そのキュウリをもいだ。後、二本ほどもぐと、ききょうと庖厨に向かった。

 三本のキュウリを渡そうとしたが、炊事場のまな板には塩もみしているキュウリがあった。