小説「僕が、剣道ですか? 5」

十二
 朝餉の席で、風車と一緒に食べている時に、風車はきくを見て、「えっ、鏡京介殿の奥方ではないのですか」と味噌汁の椀を持ちながら驚いていた。
「そうですよ、わたしは鏡様の妻ではありません」ときくは言った。
「拙者はてっきりご夫婦かと思っていました」と風車が言った。
 きくは嬉しそうに笑いながら、「そうだといいんですけれどね。わたしは鏡様のお世話係です」と言った。
「お世話係?」
「はい」
「そうなんですか。お子がいらっしゃるのに」
「でも、そうなんです。鏡様は他の方との間にもお子がいらっしゃったんですよ」ときくはチクリと刺すように言った。
「へえ」
「わたしは女中で、鏡様はお武家様ですから、身分が違うんです」ときくは言った。
「そういうもんですか」と風車は言った。
「でも、いい夫婦のように見えますがね」と続けた。
「そうでしょう。わたしも今では鏡様の妻になりたいです。ここに二人目の赤ちゃんもできているんですよ」と、きくはお腹をさすり、この時ぞとばかりに言い立てた。
 現代に戻ったとしても、それはできないだろうと思ったが、僕は黙って聞いているしかなかった。
 富樫たちはどうしているんだろう、と思った。学年末休みだから、優雅に遊び暮らしているんだろうなと思うと羨ましくなった。

 宿賃を払って街道を歩くと、風車が寄ってきて、「何故、おきくさんをお嫁さんにしないんですか。身分なんてこの際どうでもいいじゃありませんか」と言った。さらに「あんなに若くてべっぴんなんだから、拙者ならほっときはしませんけれどね」と続けた。
 僕には僕の事情があるんだ、とは言えなかった。

 次の宿場に来たら、人だかりができている。火事だった。火消しが来ていたが、延焼を防ぐのが精一杯だった。
 一人の若い母親が泣きながら、「まだ宿の中に子どもがいるんです」と言った。しかし、この火の中を助けに行くことはできそうになかった。
「子どもは何処にいるんですか」と僕は訊いた。
「二階の部屋です」と母親が言った。
 その宿はまだ火が完全には回っていなかった。僕は草履を安全靴に履き替えると、火事場に向かい、水をかけようとしている者から桶を奪うと自分の全身に水をかけた。そして、火の出ている宿の中に飛び込んだ。その瞬間に、時間を止めた。当然、炎も止まった。
 熱さはどうしようもなかったが、火に燃えることはなかった。
 階段にも火は回っていた。しかし、抜け落ちるほどではなかった。僕は階段を駆け上がると、各部屋を探した。そうしているうちに、奥の部屋の隅に蹲っている女の子を見付けた。五歳ぐらいだろうか。彼女をおぶって、部屋から出た。
 階段を降りて、通路を玄関に向かって走った。玄関から飛び出す瞬間に時間を動かした。
 女の子は大きな声で泣き出した。母親が駆け寄ってきて子どもを抱き締めた。
 僕はそっと安全靴を脱いだ。そして、草履を脱いだところまで来ると、草履を履いた。
 立ち上がると、拍手が起こっていた。
「すげぇや」
「あの火の中に飛び込んでいくなんて、正気の沙汰じゃねぇ」
「でも、子どもを助けてきたんだから大したもんだ」
 風車も寄ってきて、「鏡殿、感服しました。剣が強いだけではなかったのですね。人として、拙者の及ぶところではありません」と言った。
 きくが心配してきた。
「大丈夫ですか」と訊いてきた。
「ああ、大丈夫だ」と答えた。
 時間を止めていた間、呼吸もできる限り止めていたので、有毒ガスを吸わないで済んだのだった。火は時間が止まっている間、燃え移ることはなかった。
 しかし、時間を解いてから、僕はひどくだるくなった。火事場の中で、時間をとられていたのだろう。他の人には、一瞬のことのように思えても、僕には沢山の時間を要したのだった。しかも、呼吸を止めている分、疲労感もつのった。
 一端、座るとしばらく立つこともできなかった。
「少し、休まれた方がいい」と風車が言い、僕を引きずるように家の壁に凭れ掛けさせてくれた。
「水が欲しい」と言うと、きくが竹水筒に水を汲んで持ってきてくれた。それを飲み干すと僕は眠ったようだ。
 そうして小一時間ほど休んだ。
 火はすっかり鎮火した。さっきの母親が子どもを連れてやってきて、「本当にありがとうございました」と言った。僕が起きるのを待っていたのだろう。
 僕は座ったまま「礼には及びません」とだけ言うのが精一杯だった。母親はきくにも礼を言った。
 彼女が去って行くと、僕は立ち上がろうとした。しかし、疲労感が勝っていた。結構長いこと、火の中で時間を止めていたのだ。必死だったから、あまり気付かなかったのだろう。斬り合いをしているときとは、別の疲労感が襲っていた。一酸化炭素は吸わなかったと思っていたが、少しは吸っていたのかも知れなかった。躰がだるくて仕方なかった。
「宿を取りましょうか」ときくが言った。
「そうしてくれるか」と僕は答えた。
「では、拙者も」と風車が言って、僕の肩を支えるようにして立たせると、そっと歩き出した。台車はきくが押した。
 宿は街道の反対側にした。
 僕らは個室で、風車は相部屋なのは同じだった。ただ、食事だけ一緒にすることは前日と変わらなかった。
 部屋に肩を支えられて入ると、布団を敷いてもらい、そのまま僕は倒れ込んだ。荷物はきくが運び込んだ。風車が手伝うと言ったが、千両箱を持っていることを知られたくはなかったのだ。それにこの時代にはない荷物も沢山あったからだ。
 僕はそのまま眠ったが、風車は昼食を食べにどこかに行った。
 きくは僕の枕元にききょうといた。

 夕方になって僕は目が覚めた。その頃になって、風車が「風呂に行きませんか」と声をかけてきた。
 僕は火事場をくぐってきたままだった。頭も着物も灰だらけだろう。
「ええ、行きましょう」と言うと布団から出て、手ぬぐいと浴衣とバスタオルと新しいトランクスと折たたみナイフをきくからもらうと、廊下で待っていた風車と一緒に風呂に向かった。
 風呂場では、まず頭を洗った。灰色の水が流れた。それから躰を洗い、着物を足踏みで洗った。着物からも灰が流れ出た。
「大変でござったな」と風車が言った。
「いかにも」と僕は答えた。
「それにしても、あの一瞬のうちに子どもを助け出すとは、神業ですな」と風車が言った。
 一瞬ではなかったが、周りの者には、そう見えただろう。時間を止めていたのだから、火事場に飛び込んですぐに出て来たようにしか、見えなかったのに違いない。今思えば、もう少し玄関で時間を使って出た方が自然だったかも知れなかったが、あの時はそんなことを考える余裕はなかった。
「神業なんてことはありませんよ。あの後の私の様子を見れば分かるでしょう」と僕は言った。
「そうですね。鏡殿は死ぬほど疲れていました。立っていられないほどでしたからね」
 その言葉を聞いて、僕は風車が何か気付いたのかと疑ったほどだった。
 しかし、風車はそんな風ではなかった。本当に感心しているようだった。
 着物を洗うと僕は風呂に浸かった。
 湯から上がると髭を剃らなければと思ったが、面倒くさかった。それでかけ湯を浴びて風呂場から出ることにした。
 風車が「おや、今日は髭を剃られないのですか」と訊くので、「毎日、剃っているわけではありません」と嘘を言った。
「やっぱり、護身用に持っていたんですね」と折たたみナイフのことを言った。こうなると訂正するのも面倒だった。風車の言うように半分は護身用に持っていることは事実だったからだ。

 風呂から上がると夕餉の用意がしてあった。
 やはり風車の膳のおかずが一品少なかった。きくが気にして、おかずを半分分け与えようとすると、風車は「お気遣いないように」と言った。
「気を遣われると、一緒に食べるのもこちらも気を遣うので大変ですから」と風車が言った。風車の言うとおりだった。
 僕はきくに目配せをして止めるようにした。
 風車は今日の火事場の話をことさら大袈裟にしゃべった。僕は藩主の前で黒亀藩の出来事を講談調に話した番頭、中島伊右衛門と近藤中二郎のことを思い出していた(「僕が、剣道ですか? 2」参照)。
 きくは笑って聞いていた。

 夜、寝る時にきくが「今日は大変でしたね」と言った。
「時を止めるのってとても疲れるんでしょう」と続けた。
 僕は驚いた。夜目にきくの顔を見た。
「わかっていますよ。あんなに素早く動ける鏡様が時を止められることぐらい」と言った。
「でなければ、あんな短い間に子どもを助け出すことなんてできないでしょう」
 きくは何でもお見通しだった。これだけ一緒にいるのだ。分かることの方が当然のように思えた。
「そうか、分かっていたか」と僕は言った。
「はい」ときくは嬉しそうに答えた。