小説「僕が、剣道ですか? 5」

 今日は湖畔を回るように街道を通り、湖を見ながらの旅だった。温泉宿が街道沿いに続いていた。

 昼は蕎麦を食べた。

 明日は、湖とも別れるから、今夜は湖畔の宿を取った。

 湖の見える部屋は個室にすると高かった。ここでも一人一泊二食付きで六百文かかった。

 夕食は、昨日は美味しく食べられたが、今日もワカサギの佃煮と天ぷらが沢山出された。こうなると、少し食傷気味になる。美味しく食べているのは、ききょうぐらいだった。ききょうはワカサギの天ぷらを細かくちぎって口に入れると、美味しそうにいくらでも食べた。

「あんまり脂っこいものを食べさせるとお腹に良くないぞ」と僕が注意したほどだった。

 その夜は、こそ泥の心配もしないでゆっくりと眠れた。

 朝、早く起きると、風呂に入りに行った。湖を右手に見て、左手には山を見る。何とも景色のいい温泉だった。

 茹だりそうになりながら、風呂から出てくると、朝餉の用意がしてあった。珍しく生卵が添えられていた。

 僕もきくもききょうも沢山食べた。卵かけご飯は美味しかった。

 

 宿を出ると、街道は湖から離れて行き、山間の道に入った。

 僕らはゆっくりと歩いていたから、後ろから来た者たちが何人も追い抜いていった。

 その一人にひげ面の大男がいた。浪人風の侍だった。

 その男が少し行くと、回れ右をして戻ってきた。

 僕らの前に来ると、「申し訳ござらんが、御貴殿のお名前をお教え願えまいか」と言った。

「そんなことを訊いてどうするのだ」と僕が言うと、「いや、もしやと思って。申し訳ないがこの願いを聞いて貰えまいか」と言った。

「仕方ないな。鏡京介という」と僕は言った。

「で、どうするんだ」と僕は続けた。

 その男は「やはり、鏡殿でしたか」と言って、「そうであるなら、ぜひ、お手合わせを願いたい」と言った。

「そんな、勝手なことを」と僕が言うと、「勝手は承知の上です。しかし、鏡京介殿とわかってお手合わせをしなければ、一生後悔します。どうか、拙者の頼みを聞いてください」と言った。

「私のことを知っているのか」

「もちろん。剣客で鏡殿のことを知らぬ者はおりません」と言った。

「致し方ない。お手合わせしましょう」

 僕はそう言うと「どこか適当な場所を探しましょう」と言った。

「わかり申した」

「ところで、貴殿の名は何と申す」と僕は訊いた。

 そう訊かれることを待っていたように、男は「風車大五郎と申す」と大声で言った。

「勇ましい名前ですね」

「良く言われます」と男は照れたような顔をした。

 少し行くと、野原のようなところがあった。

「ここにしましょう」と僕が言うと「結構です」と風車も言った。

「きく、少し離れていろ」

「はい」ときくは言うと、ききょうをおんぶして、街道沿いの方に向かった。

 僕と風車は野原の中に入っていった。

 薄が生えていた。しかし、風車も僕に負けないほどの背の高い男だった。百八十センチメートルほどはあるかも知れなかった。

 ひどく長い刀を抜いた。

 僕も定国を抜いた。

 相手は手合わせを願うほどだから、力量はあった。刀の持ち方だけで分かった。

 隙がなかった。

 正眼に構えたまま動かなかった。

 僕も正眼に構えた。相手が動いてくるのを待った。しかし、相手はなかなか動いてこなかった。仕方がなかった。こちらが仕掛けていくしかなかった。

 構えを上段に変えて、間合いを詰めた。素早く相手の刀が向かってきた。普通ならそれで斬られていただろう。しかし、僕の方が速かった。その刀を定国が弾いた。そして、僕は定国の切っ先を相手の喉元に突きつけた。勝負はついた。

「お見事でござる。拙者の負けでござる」

 風車は自分の負けを認めた。

 僕は定国を鞘に収めた。風車も刀を鞘に収めた。

「これほど素早く、拙者を負かしたのは貴殿が初めてでござる」と風車は言った。

「そうすると風車殿は何度も負けているのか」と僕が言うと、「いや、一度だけでござる」と言った。

「ほう、それは誰ですか」と訊くと、「貴殿が負かした黒亀藩御指南役の氷室隆太郎殿でござった」と答えた。

「その当時、随一の使い手と言えば黒亀藩御指南役の氷室隆太郎殿でしたからな。それで黒亀藩まで出向いていって、お手合わせを願ったわけです。拙者の完敗でした。あの二刀流はそう簡単に破れるものではないと思っていましたが、鏡京介殿が破ったと聞きましたので、ぜひお手合わせしていただきたいと思っていたのです」

「そうでしたか」

「氷室隆太郎殿も強かったが、鏡殿は別の強さがある。それは拙者には超えられぬもののように感じました」

 僕は黙って頷くしかなかった。

「これで念願が叶いました。ありがとうございました」と風車は頭を下げた。

「では、これで」と僕が言うと、風車が「どちらまで行かれるのですか」と訊いた。

「江戸までです」と答えると、「それなら拙者と同じです。同行してもよろしいですか」と訊いた。僕はすぐには答えられなかった。

「旅は道連れって言うじゃないですか」と風車は畳みかけるように言った。

 僕はきくを呼んで、事情を話した。

「わたしは構いませんよ。でも、歩くのは遅いですよ」と言った。

「それは大丈夫です。拙者も急ぎ旅ではないので」と答えた。

「私たちと一緒だとご迷惑をかけるかも知れませんよ」と僕が言った。

「それはどういうことですか」と風車が訊いたが、僕は「答えることはできません。付いてくれば分かることです」と言った。

「じゃあ、ご一緒させていただきます」

 風車は、すっかり同行することに気を良くしていた。

 僕はきくを見やったが、きくは仕方ないという顔をしているだけだった。