小説「僕が、剣道ですか? 5」

十二-2

 火はすっかり鎮火した。さっきの母親が子どもを連れてやってきて、「本当にありがとうございました」と言った。僕が起きるのを待っていたのだろう。
 僕は座ったまま「礼には及びません」とだけ言うのが精一杯だった。母親はきくにも礼を言った。
 彼女が去って行くと、僕は立ち上がろうとした。しかし、疲労感が勝っていた。結構長いこと、火の中で時間を止めていたのだ。必死だったから、あまり気付かなかったのだろう。斬り合いをしているときとは、別の疲労感が襲っていた。一酸化炭素は吸わなかったと思っていたが、少しは吸っていたのかも知れなかった。躰がだるくて仕方なかった。
「宿を取りましょうか」ときくが言った。
「そうしてくれるか」と僕は答えた。
「では、拙者も」と風車が言って、僕の肩を支えるようにして立たせると、そっと歩き出した。台車はきくが押した。
 宿は街道の反対側にした。
 僕らは個室で、風車は相部屋なのは同じだった。ただ、食事だけ一緒にすることは前日と変わらなかった。
 部屋に肩を支えられて入ると、布団を敷いてもらい、そのまま僕は倒れ込んだ。荷物はきくが運び込んだ。風車が手伝うと言ったが、千両箱を持っていることを知られたくはなかったのだ。それにこの時代にはない荷物も沢山あったからだ。
 僕はそのまま眠ったが、風車は昼食を食べにどこかに行った。
 きくは僕の枕元にききょうといた。

 夕方になって僕は目が覚めた。その頃になって、風車が「風呂に行きませんか」と声をかけてきた。
 僕は火事場をくぐってきたままだった。頭も着物も灰だらけだろう。
「ええ、行きましょう」と言うと布団から出て、手ぬぐいと浴衣とバスタオルと新しいトランクスと折たたみナイフをきくからもらうと、廊下で待っていた風車と一緒に風呂に向かった。
 風呂場では、まず頭を洗った。灰色の水が流れた。それから躰を洗い、着物を足踏みで洗った。着物からも灰が流れ出た。
「大変でござったな」と風車が言った。
「いかにも」と僕は答えた。
「それにしても、あの一瞬のうちに子どもを助け出すとは、神業ですな」と風車が言った。
 一瞬ではなかったが、周りの者には、そう見えただろう。時間を止めていたのだから、火事場に飛び込んですぐに出て来たようにしか、見えなかったのに違いない。今思えば、もう少し玄関で時間を使って出た方が自然だったかも知れなかったが、あの時はそんなことを考える余裕はなかった。
「神業なんてことはありませんよ。あの後の私の様子を見れば分かるでしょう」と僕は言った。
「そうですね。鏡殿は死ぬほど疲れていました。立っていられないほどでしたからね」
 その言葉を聞いて、僕は風車が何か気付いたのかと疑ったほどだった。
 しかし、風車はそんな風ではなかった。本当に感心しているようだった。
 着物を洗うと僕は風呂に浸かった。
 湯から上がると髭を剃らなければと思ったが、面倒くさかった。それでかけ湯を浴びて風呂場から出ることにした。
 風車が「おや、今日は髭を剃られないのですか」と訊くので、「毎日、剃っているわけではありません」と嘘を言った。
「やっぱり、護身用に持っていたんですね」と折たたみナイフのことを言った。こうなると訂正するのも面倒だった。風車の言うように半分は護身用に持っていることは事実だったからだ。

 風呂から上がると夕餉の用意がしてあった。
 やはり風車の膳のおかずが一品少なかった。きくが気にして、おかずを半分分け与えようとすると、風車は「お気遣いないように」と言った。
「気を遣われると、一緒に食べるのもこちらも気を遣うので大変ですから」と風車が言った。風車の言うとおりだった。
 僕はきくに目配せをして止めるようにした。
 風車は今日の火事場の話をことさら大袈裟にしゃべった。僕は藩主の前で黒亀藩の出来事を講談調に話した番頭、中島伊右衛門と近藤中二郎のことを思い出していた(「僕が、剣道ですか? 2」参照)。
 きくは笑って聞いていた。

 夜、寝る時にきくが「今日は大変でしたね」と言った。
「時を止めるのってとても疲れるんでしょう」と続けた。
 僕は驚いた。夜目にきくの顔を見た。
「わかっていますよ。あんなに素早く動ける鏡様が時を止められることぐらい」と言った。
「でなければ、あんな短い間に子どもを助け出すことなんてできないでしょう」
 きくは何でもお見通しだった。これだけ一緒にいるのだ。分かることの方が当然のように思えた。
「そうか、分かっていたか」と僕は言った。
「はい」ときくは嬉しそうに答えた。