小説「僕が、剣道ですか? 2」

十九
 風呂場でも、きくの説教は延々と続いた。
「堤先生を勝たせたかったんでしょ」
「そういう訳じゃないが」
「他にどういう訳があるんですか」
「いろいろだ。いろいろあるんだ」
「どういろいろあるんですか」
「あるだろう」
「例えば、おたえさんとか」
「何でそっちに行くのかな」
「いろいろあるって言うからですよ」
「第一、堤先生が勝つとは限らないじゃないか」
「そうですけれど、堤先生が勝ってから、試合をしたんですよね。しかもわざと負けるふりをして」
「誰がそんなことを言っているんだ」
「みんな言ってますよ」
 みんなって誰だよ、と言おうとしたが、子どもの喧嘩みたいになるから、止めた。
「とにかく、真剣白刃取りなんて、もうやらないでくださいね」
「分かった」と言ったが、真剣白刃取りの格別のスリル感は、また味わいたいと心のどこかでは思っていた。

 夕餉の席では、真剣白刃取りの話で持ちきりだった。
「お殿様が何度も見事だ、と言っておられた。わしもあんな技を見るのは、初めてだった。いや、あの場にいた者、皆、初めて見たことだろうよ」
 そう家老が言うと、家老の嫡男も「確かに凄い技でしたね。御前試合であのような技を見られるなんて、思いもよりませんでした」と言った。
「あの後、竹田殿は右腕を切られていたそうだが、そんな風には見えなかった」と家老の嫡男が言った。
「竹田の申すことは、言い訳じゃろう。満座の前で行われていたことだ。鏡殿が竹田の右腕を切ったところなど、誰も見てはおらん」
「そうですよね。おそらく、刀を奪われた時に、腕を捻ったか、刀の切っ先が当たったかしたのでしょう。とにかく、見事な技だった」と家老の嫡男はフォローしてくれた。
「私もこの年まで生きていて良かったと思いましたよ。なんせ鏡殿のあの早技は、凄いとしか言いようがない」と佐竹も言った。
 家老が「あの技はどこで体得したのだ」と訊いた。
「あれは体得できる技ではありません。稽古で学べるものではないのです」
「では、どうしてあの場でやれたのだ」
「できると思ったからです」
「できると思った」
「そうです」
「つまり、竹田の剣を見切ったと言うことか」
「そんなことは」
「そういうことであろう。ならば何故、試合放棄をした。続けていれば、勝てたものを」
「私が勝つわけにはいかなかったからです」
「それは何故じゃ」
「御指南役を引き受けることができないからです」
「どうしてだ」
「また、ふらりと此所を出て行く時が来ましょう。私は風来坊なのです」
「おかしなことを言う奴だ。また、いなくなると言うのか」
「その時が来れば……です」
「まぁ、詮索はしまい。好きにするがいい」
「お言葉に甘えさせていただきます」
「試合放棄をした後に、真剣白刃取りを見せたのは何故じゃ」
「気まぐれです」
「気まぐれ」
「はい」
「気まぐれで、命を賭けられるものなのか」
「命など賭けてはいません。斬られるはずはなかったのです」
「それほどに、真剣白刃取りに自信があったのか」
「はい」
 家老は笑った。
「そこまで、はっきり言うとはな」

 座敷に戻っても、きくの機嫌は良くなかった。
「もしものことがあったらどうするの」と言った。
 僕は「疲れたから寝る」と、早々に布団に潜り込んだ。
 ききょうの顔を見たかったが、きくが抱いているので止めた。

 次の日、道場に出ると真剣白刃取りの話題で持ちきりだった。
「静まれ」
 そう言わなければ、いつまでも話していただろう。この道場の者たちは、もちろん真剣白刃取りを見てはいなかった。噂だけを聞いていた。
「見せてやろう」と僕が言った時、皆が、わぁーと湧いた。
「静まれ」とまた言わなくてはならなかった。
「これは、此所だけで見せる。秘儀だから口外しないように」と言った。
 門隊の口を閉ざすには、それが一番だと思ったからだ。しかし、見ればしゃべりたくなるだろう。それが人間というものの習性だ。
「相川、真剣を持ってきているか」と訊いた。
「いいえ」と答えた。
「真剣を持ってきている者はいるか」と訊いたが、稽古に真剣を持ってくる者はいなかった。
 僕はホッとした。
「少し待っておれ」
 僕は道場を出て、座敷に行った。きくがききょうを抱いてあやしていた。
 床の間から刀を取ると、「素振りでもされるつもりですか」と訊くので、「いいや」と答えた。
「では、何をされるつもりですか」
「これから門弟に真剣白刃取りを見せる」と言うと、きくは刀を掴んだ。
「駄目です。もうお止めください。昨日、真剣白刃取りはもうしないと約束したばかりではありませんか」
「これは見せるだけだ」
「同じことです」
「では、きくも見るといい」
 えっ、ときくは言葉に詰まった。その時、手が緩み、刀を放した。
 僕は刀を取ると、道場に向かった。きくも付いてきた。
 道場は女性禁制だった。
「きくにも見せたい。通路側を空けよ」と言った。
 通路に立っていた門弟が中側に寄った。通路から道場が見渡せた。
 そこにきくを立たせた。
 僕は刀を持って、道場に入っていった。
 僕が入っていくと、それまで騒がしかったのが、いっぺんに静かになった。
「相川」と相川を呼んだ。
 そして刀を渡した。
「抜いてみろ」
 相川は刀を抜いた。刀は光らなかった。相川は人を殺したことがなかったのだ。
「そこで素振りをしてみろ」
 僕がそう言うと、相川は刀を上段に構えて打ち下ろした。
「遅い。もっと速くだ」
 相川は考えてみれば二十二歳で、僕よりも五つ年上だった。それが教える方と教わる方でこうも違ってしまっていた。
 僕はじれったくなって、相川から刀を取り、振って見せた。素早い振りだった。
 刀を渡された相川は、もう一度刀を振り下ろした。
「今度は、少し下がって、踏み込んでから、振り下ろしてみろ」と言った。
 相川は下がり、踏み込みながら刀を振り下ろした。前よりも速くなっている。
「それくらいか」
 僕はしょうがないように言った。そして、相川の正面に立った。
「あなた、止めて」ときくが叫んだ。
「きく、見たくないのなら、向こうに行っていろ。見るのなら、黙っていろ」
 きくは黙った。自然と、道場に緊張感が漲ってきた。
「相川、上段に構えろ」
 相川は言われたとおりにした。
「そして、踏み込みながら、できるだけ速く刀を振り下ろせ。もちろん、私を切るつもりで」
「そんなことできません」
「やるんだ」
 上段に構えている相川の腕が震えていた。
「こい」と僕は、叫んだ。
 相川は、無我夢中で走り出し、踏み込んで刀を思い切り振り下ろした。
 だが、その刀は、僕の頭上で両手でぴったりと押さえ込まれていた。僕は刀を奪い取りはしなかった。
 相川は刀から手を離して、腰を落とした。
 その途端に拍手が鳴った。そして、響めきが湧き起こった。
 僕は刀を持ち替えて、鞘の方に向かうと、刀を鞘に収めた。
 凄い歓声だった。
 通路に立つきくの所に向かった。
「これが真剣白刃取りだ」と言った。
 きくは口がきけなかった。ききょうを抱いているので精一杯だった。そのきくの背中を押して、座敷まで行った。
 きくを座布団に座らせると、刀を床の間に置いた。
「私は道場に戻る」
 そうきくに言った。

 道場は大騒ぎだった。
 相川はまだ呆然としていた。
「静まれ」と言った。静かになった。
「あの技は、決して真似をしてはならない。お前たちがやれば必ず死ぬ。いいか」
 そう言うと、「はい」と声が揃って返ってきた。
 真剣白刃取りを目の当たりにして、真似ができるとは思わなかったのだろう。
「あれは剣術の中でも頂点の技の一つだ。あれが使えるようになるには、まだまだ道のりは遠い。多分、多くの者はあの技まで辿り着けないだろう。しかし、見たのだから、あの技に向かうことはできる。一歩でも近付くように稽古に励め」
 練習嫌いな僕が、そう言っていた。
 次の瞬間、皆、木刀を持って稽古を始めていた。
 真剣白刃取りの興奮が躰を動かさずには、いられなかったのだろう。