小説「僕が、剣道ですか? 2」

二十
 三日間、堤道場には行かなかった。
 祝宴や祝辞を述べる来客が多いと思ったからだった。城中にも登城したことだろう。
 とにかく、遠慮していた。
 しかし、四日目に堤道場から門弟の使いが来た。ぜひ、訪ねてきて欲しいという堤の要望だった。その門弟と一緒に堤道場に行った。
 堤道場は町中を通らなければ行けない。町を通ると「よっ、真剣白刃取り」とあちらこちらで声をかけられた。
「凄いねぇ。刀がなくても勝つんだから」
 真剣白刃取りを見ていないから、話はどんどん大きくなっていた。

 町を抜け、堤道場に来た。門の所にたえはいなかった。
 座敷に通された。
 堤がいた。その隣にお腹の大きくなったたえもいた。
 僕は「御指南役に就かれたこと、おめでとうございます」と言った。
「ありがとうございます」と堤は言った。
 僕は「丁寧な言葉はお止めください。もう御指南役なんですから」と言うと、「そうは参りません。この役に就けたのも、鏡殿のおかげですから」と言った。
「私は何もしていませんよ」
「そうご謙遜なさらなくても結構。佐伯殿の八方剣を見させて頂いたし、わざと試合放棄をされたのでしょう。しかも、相手に深手を負わせて」
「そんな」とは言ったが、堤には見透かされていると思った。
 たえが「この度はありがとうございました」と言った。
「だから、私は何もして……」と言いかけたところで、「ないわけがないじゃないですか」とたえが言葉を引き取った。
「父から話を聞いて、よくわかりました。町では、真剣白刃取りと簡単に言っていますが、あの場でそれができる者が鏡様以外にいないこともよくわかりました。刀を持っていないから、相手に傷を負わせたとしても、あの場では問題になりようもないこともわかりました。鏡様は父に佐伯流八方剣を見せた後も、山に行ったそうですね」
「どうしてそれを」
「真剣白刃取りをして見せた後、佐伯殿が私に言ったのです。鏡殿が真剣で佐伯流八方剣を破って見せたことを。そして、たすき掛けにしていた布も切っていたことも。それで佐伯殿は心が折れたそうです。私と戦う以前に、佐伯殿は鏡殿に破れていたのですね。御前試合での佐伯殿に精彩がなかったのは、そのためだったのですね。そして、それならば、真剣白刃取りをしながら、相手の右手に深手を負わせることも簡単だなと思いました。いずれも私のためでしょう」と堤は娘の言葉を引き継いだ。
「そんなことは」と僕は言いかけたが、そうでないとは言い切れなかった。心のどこかで、堤に御指南役になってもらいたかったと思っていたのは事実だったからだ。
「とにかく、私を御指南役にして頂いた一番の功労者に来て頂いて良かった。これで肩の荷がおりました」と言った。
「でも、御指南役になられたら、おたえさんが気がかりですね」
 堤は笑って、少し乗り出した。
「婿になってもらえますか」
「いや、それは……」
「冗談ですよ。でも、たえはそれを願ってはいますがね」
 たえは顔を赤らめた。
「申し訳ありません。私は遠からず、ここからいなくなります。ですから、婿になることはできません」
「それからお預かりしていた二十五両ですが」と堤が言い出したので、「それは生まれてくる子のために使ってください」と言った。
「そうですか。一度、出されたものだから、受け取るはずもないと思っていましたが、一応訊いておこうと思いましてな」
「そうですか」
「何しろ、御指南役になったのですから、お金には困らなくなりました。それに門弟たちが稽古料を入れるようになってきましてね」
「そうなんですか」
「そうなんですよ」とたえが言った。
「御指南役のところで稽古を付けてもらっているんだから、ただでは肩身が狭いと武家の者たちが払い出したら、他の者まで払うようになって、かなり収入が増えたんです」
「それなら、第二道場を作ればいい。もう、ここの道場も狭くなったでしょう。御指南役ともなれば、もっと門弟が増えますよ」
「それより、師範代を早く決めて頂く必要が出ました」
「と言うと」
「私は御指南役としてお城勤めになるので、この道場をみることができなくなります」
「そうか。それは考えていませんでした」
「あの四人のうちから、誰がいいのか選んでください」
「師範代がおたえさんの婿になるという訳ではありませんよね」
「その可能性はあります。ただ、御指南役ともなれば、それなりの付き合いも広がるでしょうから、別の縁談話が出るかも知れません。ただ、あのお腹では普通に縁談話が出るとも思えませんが」
「おたえさんの婿の可能性がある。これは難しい事柄ですね」
 僕は頭を抱え込みたくなった。
 そんな僕をたえは見ている。
「たえにとっては、誰が婿になろうと同じです。この子の父親が夫なのです」
「たえ」と堤がたしなめた。
「父上、この気持ちに変わりはありません」
「困ったもんです」
「分かりました。それでいつまでに」
「来月には、出仕することになっています。その前がいいのですが、どうですか」
「それでは四日後に伺います。その時、決めます」
 堤は「よろしくお願いします」と言った。
 僕は「おたえさん、いいですね」と訊いた。たえは、頷くしかなかった。
「私が決めるのは、あくまでも師範代ですから、そのつもりでお願いします」
「それで結構です」と堤は言った。
 たえは門の所まで、見送りに出てきた。
 僕と話したかったのだろう。
「誰に決まろうと、たえの心は変わりません。お慕い申しております」
「分かっている」
 僕はたえと指を絡ませながら、そう言うのがやっとだった。

 屋敷にすぐ戻る気にはなれなかった。
 町をぶらついていた。到る所で、「よっ、真剣白刃取り」と声をかけられた。
 蕎麦屋の前を通ると、「奢るから、話を聞かせてよ」と言う若い旦那風の男に声をかけられたりもした。
 ある角に何かの飾りを作っている職人がいた。
 その脇を通り過ぎようとしたら、「あんた、鏡の旦那だろう」と言う。
「そうだ」と答えると、「いつか勇太を助けてくれたんだよな」と言った。
「誰を助けたって」
「勇太だよ、川で溺れかけていた」
「ああ」
 僕はそう言われて思い出した。
「おなみさんに会いに行くんだろう」と訊かれたので、「いいや」と答えたが、「おなみさんならそこの長屋だよ」と教えてくれた。
 別になみに会いに来たわけでもなかったが、そこの長屋だよ、と言われると、ふらりと引き寄せられるように長屋に向かう通りを入っていった。
 中程に井戸があり、その回りが洗い場になっていた。何人かの中年の女性が洗い物をしていた。
 僕が入っていくの見ると、「あら、鏡の旦那」と声をかけられた。一人がそう言うと、一斉に目が向けられた。
「どうして私を知っている。会ったこともないのに」
「そりゃわかるわね」と一人が言うと「そうそう」と皆が頷いた。
「背が高くて、若くて役者のようないい男と言ったら、あんたぐらいしかいないじゃないか」
「それから真剣何とか取りとかいう凄い技も持っているんだってね」
「このあたりじゃ、知らない人なんかいないよ」
「それに、そこの勇太が川で溺れているのを助けてくれたんだよね」
「あっ、そうだ。そういうこともあった」
「あんたには、おなみさん、感謝していたよ」
「そうそう」
「そうですか」
「おなみさんに会いに来たんだろ」
「あいにくだったわね」
「今、お客さんが来ているんだよ」
「別に会いに来たわけじゃないんで」と言っていたところで、端の戸が開いて、中から若い男が出てきた。なみも出てきて、頭を下げた。その男は長屋を出て行った。
「あっ、帰って行くよ」
「ちょうど、良かったじゃない」
 中年の女性の一人が、僕の着物の袖を引っ張って「おなみさん」と声をかけた。
 なみは「あら」と言ってビックリしたような顔をした。そして、「ちょっと中をかたづけますね」と言って部屋の中に入っていった。
「若い男がちょくちょく来るんだよ」
「呉服屋の若旦那だよ」
「そうだね」
 ここにはプライバシーってものがないのか、と思った。
 しばらくして、なみが「どうぞ」と僕を呼んだ。
「あー、お金を払っても抱かれたいよね」
「いい男だもんね」
「おなみさんが羨ましい」
 僕は完全に、彼女を抱きに来た者と思われているのか、と思った。
 僕が部屋に入り、なみが戸を閉めると、直前までの男女の営みの気配がまだ漂っている感じがした。二方向の窓は開けられていた。部屋の隅に布団が畳まれていた。
「今日に来て、済みません」
 僕はそう言った。
「いえ、いいんですよ。でも、見られたくないところをお見せしてしまいましたわ」と言った。
「お裁縫をしていると言ったけれど、それだけじゃあ、暮らしてはいけないんですよ」
「はあ」
「お茶を出さなくちゃ」と言って、やかんをかまどにかけようとしたが、火はおこしていなかった。その時、戸を叩く音がした。
 なみが開けると、「はい、お茶」と言って、おそらく隣に住む女性がお盆に載せた湯呑みを二つ持ってきた。
「ありがとうございます」と言って、なみはそれを受け取った。
 僕が「頂きます」と言って、お茶に手をつけると、「その節は、ありがとうございました」となみは両手を畳に突いて頭を下げた。
「勇太とか言う男の子はどこに」と訊くと、「子どもたちと遊びに行っているんでしょう。暗くなると帰ってきます」と言った。
「そうですか」
「わたしに何か御用でもありましたか。御礼が十分ではないのはわかっていますが」
「いや別に、ただ通りがかったものですから、気になって来てしまいました」
「わたしにできることなら何でもします」とにじり寄ってきた。
 僕はなみの両肩を持って、「ただ、来てしまっただけですから」と言った。
「わたしのことを、忘れないで来てくださったんですか」となみは嬉しそうに言った。
 そういうことじゃないんだけれど、と思ったが、口にはしなかった。
「ちょっと考え事をしているうちに、偶然こっちに来てしまったのです」
 炊事場があるだけの一間の部屋だった。
 ここになみと勇太が暮らしている。こんな暮らしを普通の町人はしているのだ。僕は恵まれているのだ、と思った。
「私はこれで帰ります」
「そんな、今、来たばかりではありませんか」
「ただ、立ち寄っただけですから」と言って立ち上がったら、なみも立ち上がり、急にふらついた。そのままでは倒れそうに思ったので、抱きかかえた。すると、なみの両手が首筋に回って、抱きついてきた。そして、あっという間に、口づけをしていた。
 口を離した後、「わたし、血が薄くて、時々目眩がするんです」と言った。
 なみから躰を離した僕は、「ちゃんと食べていないからです」と言った。
 そして、巾着から一両を出して、「これで精のつくものを食べてください」と言った。
 なみは「これはもらえません」と返そうとしたが、現実の一両には勝てなかった。
 それを返す振りをして、僕の手を掴んで胸元に入れた。
「なみをお抱きください」
「いや、結構」
 僕はなみを離すと、草履を履き、戸を開いた。そこに聞き耳を立てている人がいっぱいいた。
 その人たちをかき分けて、外に出た。
「すげぇ、一両だ」と言う声が聞こえてきた。
 そのまま僕は通りに出た。
 そして、溺れた子どもを助けた良い思い出を、悪い思い出に変えたことを後悔した。