小説「僕が、剣道ですか? 3」

十三

 午後一時半前に家を出た。少し早かったが、新宿南口まで歩いて行くつもりだった。

 十分ほど前に着いたが、沙由理の方が早かった。あまり歩くことをせずに、駅ビルでおやつを食べることにした。僕も沙由理もお昼は食べていなかったので、少しボリュームのあるものを食べようということになった。パンケーキが有名な店の前は、行列ができていた。でも、他にあてがなかったので、行列の後ろに並んだ。

「この前は大変でしたわね」と沙由理が言った。

「そうだね、いきなり背中にナイフを突きつけられたからね」

「わたし、あんなこと初めてだったので、まるで映画でも見ているみたいでした」

「怖くはなかったの」

「怖かったですよ。でも、あまりに怖いと現実感が無くなるんですよね」

「そうなの」

「わたしはそうでした」

「そういうもんか」

「京介さんはああいうこと、初めてではないですよね」

「えっ、どうして」

「だって、少しも怖がっていなかったですもの」

「そんなこと分かるの」

「わかりますよ。隣で腕を組んでいたんですよ」

 そうだった。背後のことばかりに注意を向けていたから、腕を組んで歩いていたことをすっかり忘れていた。いや、忘れていたわけではなかったが、それより相手に集中していたのだ。もちろん、沙由理を守ろうという気持ちも強くあった。もっとも途中で、腕を組んではいられなくなったが……。

「あなたが、怖がっていれば、わたしだって、もっと怖いと思ったはずです。でも、少しもあなたは怖がってはいませんでした」

「僕だって、あの状況じゃあ、怖かったですよ」

「嘘が下手ですね。相手と堂々とやり取りをしていたじゃないですか」

「そうかな」

「それに何と言っても、あれだけの人数をやっつけてしまうんですもの。怖がるはずがありませんよね」

「あれはたまたまで……」

「たまたまで、十二人もやっつけられるんですか」

「相手の数、よく覚えていられたね」

「ええ、京介さんがやっつける度に数えてましたから」

「そお、最初から知っていたと思っていたけれど」

「わたしがあいつらと関係があると思っているんですか」

「そうじゃないの」

「失礼な、そんなはずあるわけないじゃないですか」

「そうか、僕の思い込みだったか」

「帰ります」

 そう言うと順番の席から、彼女は立ち上がった。

「それはいいけれど、話は何だったの」

 そう言うとまた座った。

「絵理のことを話そうと思ったんです」

「そうか」

「あなたはわたしのことをそんな風に思っていたんですね」

「しょうがないじゃないか、あの状況じゃあ」

「どういう風に思ったのか、聴かせてもらえますか」

「いいよ。まず、君からの現代美術展の誘いだ。絵理を使って僕が断れないように巧妙に誘った」

「それはそうです」

「そして、現代美術展の後にすぐ近くのイタリアンレストランに入った後の帰り道の方向。後ろからのナイフの突きつけ方。君にも突きつけていたと言ったけれど、見えなかった」

「わたしにもわからなかったです」

「じゃあ、それはあいつらの嘘だったのか。それから、あの路地。相手は、僕たちが来ることを待っていたよな」

「そうですね、でもわたしとは関係はありません」

「現代美術展に誘ったのは君だよ。そして、イタリアンレストランに入った後の帰り道も君が決めていた。そして、路地に待っていた十人。これだけ、状況証拠が揃うと、疑わざるを得ないじゃないか」

 僕たちの順番が来た。僕と沙由理はテーブルに案内された。

 僕はチョコレートバナナのパンケーキとコーヒーを頼んだ。沙由理は、ブルーベリーのパンケーキとアールグレイを頼んだ。

「確かに絵理を使ってあなたが断れないように現代美術展に誘ったのは、わたしだし、あのイタリアンレストランを選んだのもわたしです。でも、そこまでです、わたしがしたのは。そこまで、ある子に頼まれたんです」

「ある子って」

「真紀子」

「真紀子とはどういう関係」

「中学時代の同級生。今は女子高に通っています」

「そうか。真紀子って女の子からの頼みだったんだ」

「そうです。でも、それだけじゃないんです」

 その時、注文していた品物が運ばれてきた。

「それだけじゃないって」

 沙由理はブルーベリーのパンケーキを頬張って、しばらく食べてから「わたしもきっかけが欲しかったんです」と言った。

「どういう意味」

「今、言った通りの意味です」

「分からないんだけれど」

「あなたとお付き合いしたいな、と思っていたんです」

 僕は口に入れたパンケーキを吹き出しそうになった。

「それ、マジ」

「ほんとですよ」

「マジかよ」

「だから、真紀子から頼まれた時、チャンスだと思ったんです、あなたと近づける。レストランからの帰り道は指定されたわけじゃなかったんですよ。あの辺りを歩いたらどおって言われたのが、頭に残っていたんです。ほんとですよ」

 沙由理の言っていることは嘘には思えなかった。

「だからあんなことになるなんて思ってもみなかったわ。わかってたら、誘いはしなかったわ」

「で、今日はどうして誘ったの」

「絵理のことを話したかったんです」

「どういうこと」

「京介さんは絵理が好きなんでしょう」

「うん」

「でも、付き合っているわけじゃないでしょう」

「そうだね」

「だったら、わたしと付き合ってください」

「昨日、あんなことがあったんだよ」

「わかっています。反省もしてるんです。わたしが馬鹿だったんです。それでも付き合って欲しいんです」

 僕はそれから黙ったままパンケーキを平らげた。

 沙由理は、少しずつ食べていた。

「絵理とはどういう関係なの」

「友人以上親友未満っていったところです」

「そう」

「絵理に訊いてみたんです。わたしは京介さんと付き合いたいけれど、絵理はどう思っているのって」

「それで絵理は何て言ったの」

「付き合えば、って」

「あー、そういう奴なんだよな」

「で、京介さんの返事はどうなんですか」

「ああ、君と付き合うっていうことだよね。普通に付き合うなら別に構わないけれど」

「普通に付き合うなら、ってどういう意味ですか」

「まだ、知り合ったばかりでしょう。だから、これから知り合っていけばいいんじゃないの、っていう意味だけれど」

「じゃあ、OKと考えていいんですね」

「まあ、そういうところかな。でも、僕は絵理からいい返事はもらっていないけれど、絵理のことは好きだよ。それでもいい」

「了解です。問題ありません」

「そういうもん」

「そういうもんです」

 沙由理はパンケーキをパクパクと食べ始めた。

 僕がコーヒーを飲み終えたところで、沙由理はアールグレイを飲み干した。

「これ見てください」

 沙由理の首には、昨日買ったネックレスが綺麗に光っていた。

 僕は沙由理に近づいて「似合ってる」と言った。

 沙由理は嬉しそうに笑った。