小説「僕が、剣道ですか? 2」

十八
 審判である番頭の中島伊右衛門が張り上げた「鏡京介殿の負け」の声はあたりに響いた。
 そして、次に響めきが起こった。意外な形で決着が付いたからだった。
 僕は木刀を拾い「静かに」と叫んだ。
 響めきが収まった。何が起こるのか、みんなが注視していた。
 僕は木刀を右脇に抱えて、藩主の方に少し進んで、片膝を突いた。
 そして、深々と頭を下げて「今の試合、私の負けで結構です。しかし、一つ藩主様にお見せしたい技があります」と言った。藩主は側用人の斉藤頼母に耳打ちした。
 斉藤頼母は「ほう、それは何だ、とおっしゃっておられる」と言った。
「真剣白刃取りです」
 僕はそう言った。
 あたりに響めきが起こった。
 斉藤頼母が「真剣白刃取りだと」と訊き返した。
「そうです」
 藩主がそれはどのようなものか、斉藤頼母に訊いているようだった。斉藤頼母は藩主に真剣白刃取りの説明をしているようだった。
「それは面白い」
 藩主が直に言った。
 斉藤頼母が続けて「見てみたいものだ、とおっしゃっている」と伝えた。
「お見せしましょう」
「どうするのだ」と斉藤頼母は僕に訊いた。
 僕は竹田信繁を指さして、「竹田殿に真剣を持たせて、私に本気で斬りかかってもらいます。それを真剣白刃取りで受けて見せます」と答えた。
「殿の御前であるぞ。戯れでは済まされないぞ」
 斉藤頼母はそう言った。
「分かっています」
「竹田が真剣を振り下ろすのだぞ。受け切れなければ、そなたは死ぬぞ」
「はい」
「受け損なった場合、御前試合を血で染めることになる。そんなことは許されぬ」
「そうはなりませぬ。ただ、怪我をされるかも知れません。その程度の出血はお許し願いたい」
「死人が出るのでなければ、怪我程度なら許そう」
「はは」

 僕は後ろに下がった。
 斉藤頼母は中島伊右衛門を呼んだ。そして、真剣白刃取りの実技をやることを伝えた。
 斉藤頼母から話を聞いた中島伊右衛門は驚いた。そして、僕の方を見た。いいのか、と言っているように見えたので、僕は頷いた。
 中島伊右衛門は試合場の中央に立ち、「これから鏡京介殿による真剣白刃取りの実演を行う。お相手するのは、今戦った竹田信繁殿である」と言った。
 試合場中が響めき、沸き返った。
 真剣白刃取りがどのような技か知らない者が多く、それがどのようなものか知っている者から聞くと、さらに響めきは広がった。
「そんなことができるのか」と言う声が、あちらこちらで聞かれた。
 僕は手の指を組み合わせて、腕を思い切り伸ばした。そして、首を左右に傾けて、軽く飛び跳ねた。
 堤と佐伯は試合場の外に座っていた。
 堤は心配そうな顔をしていた。佐伯とは初めて目が合った。僕は頷いて見せた。
 竹田は真剣を渡されて、試合場の向こう側に立った。
 僕は丸腰だった。
 蹲踞の姿勢をして立ち上がると、藩主に向けて一礼をした。そして、竹田とも一礼し合った。
 竹田が刀を抜いた。
 ざわめいていた試合場が静まりかえった。
 竹田は当然、上段に構えた。
 中島伊右衛門の「始めぃ」の声がかかると、竹田も僕も走った。
 僕は久しぶりに緊張していた。果たして思い通りに真剣白刃取りができるのだろうか。ぶっつけ本番のことだから、何が起こるか分からない。しかし、妙な興奮が全身を包んでいた。
 二人の距離は瞬く間に縮まり、その間に竹田の真剣は素早く振り下ろされて来ていた。
 竹田にすれば、いかに素早く切り落とすかだけを考えれば済む話だった。楽な試合だった。相手は剣を持っていない。それだけに竹田は存分な力と速度で刀を振り下ろすことができたのだ。
 僕は走りながら、切っ先を通り越した。そして、刀の中程より少し柄の部分の刃を両手で押さえ、背の部分で指を組み合わせた。こうして刃を受け止めると、そのまま刀をもぎ取りながら、竹田を右向きに横倒しにさせた。
 そして、その瞬間、刃の切っ先で竹田の右腕を深く突いて抜いた。
 突いた箇所は、刀の幅程度しかなかったから、血はそれほど出ていなかった。しかし、竹田の右腕の筋は切られていた。
 竹田は横倒しに倒れ、僕は奪い取った剣を高々と上げて見せて、竹田に向かって放った。
 一斉に歓声が上がった。
 誰もが信じられない光景を見ていたのだ。
 竹田は右腕を押さえて、苦しんでいた。しかし、誰もが竹田が右腕を切られたとは思っていなかった。ただ、刀を奪い取られた瞬間を見ていたのに過ぎなかった。
 中島伊右衛門は、竹田の異変に気付かなかったので、早く立ち上がるように急かした。しかし、竹田は動けなかった。
 僕が中島伊右衛門に「手首を強く捻っているからでしょう」と囁いた。中島は頷いた。
「これにて真剣白刃取りの実演は終わりにする」と中島が言った。
 僕は、竹田が倒れたまま、試合場に一礼をし、それから藩主に一礼をして下がった。
 堤の隣に座ると、「肝を冷やしましたぞ」と言った。
 佐伯も「噂には聞いていたが、真剣白刃取りなどできるものではないと思っていた。この目で見るまで、その技の存在を疑っていた。いいものを見させてもらった」と言った。
 竹田は若い侍に支えられるように試合場を出て行った。
 誰の目にも、竹田が次の試合をできるようには見えなかった。
 中島伊右衛門側用人と話して、次の試合を堤の不戦勝とすることが決まった。
 堤が木刀を持ち、蹲踞の構えをした。そして、立ち上がると、藩主に向かって一礼をすると、いない相手に向かっても一礼をした。その時、中島伊右衛門が「竹田殿は試合ができぬが故に、堤殿の不戦勝とする」と叫んだ。
 そして、堤の方に手で指し示し「堤殿の勝ち」と宣言した。
 堤竜之介が御指南役に決まった瞬間だった。
 僕は堤に「おめでとうございます」と言った。堤も何か言おうとしていたが、その時には世話役の侍に何か言われていた。
 佐伯が出て行くところだったので、後を追った。
 佐伯は「真剣白刃取り、見事だった。そして、竹田の右腕も切ったのだな」と言った。
 咄嗟に「見えていたのですか」と僕は言ってしまった。
「いや、しかし、竹田のあの痛がりようは尋常じゃない。とすれば真剣を奪い取った瞬間に何かをやったのに違いないと思った。右腕を押さえていたから、右腕を切ったのだろう、と思っただけだ。それにしても恐ろしい奴だな。真剣が使えない場に真剣を持ち出させる。そして、その真剣で相手の腕を切る。戦わなくて良かった」
 佐伯はそう言うと、侍の間に消えていった。

 屋敷に戻るときくが待ち構えていた。
「勝ちを譲られましたね」
「何のことだ」
「今日の御前試合のことですよ」
「どうして知っている」
「門弟たちが話しているからですよ」
「門弟たちは試合を見られないはずだが」
「見てきた人に聞いたに決まっているではありませんか」
「それにしても、早いな。私が戻るよりも早く話が伝わっているなんて」
「そりゃそうに決まっているでしょ。話したい人がいっぱいいるんだから」
「そういうもんなのか」
「そういうもんなんです。でも、真剣白刃取りなんていう危険な演技をしたそうじゃないですか」
「それも聞いたの」
「聞いたに決まっているでしょ」
「おしゃべりな奴が多いんだな」
「話を聞けば、無茶な技じゃありませんか。もし、切られたらどうするんですか」
「切られなかったんだから、良かったじゃないか」
「そういう問題じゃありません」
 ここにもやっかいな相手がいた。