小説「真理の微笑」

二十四

 二人の刑事が出て行くと、「何あれ」と真理子は怒っていた。

「その誰かの失踪とあなたの事故がどう関係があると言うのよ。邪推もほどほどにして欲しいわ」

 真理子の怒りは当然だった。事故の事を訊きに来るのなら、まだしも、高瀬隆一の失踪について訊きに来るのは、確かに筋が通らなかった。普通なら筋違いではあったが、あの刑事たちは、とにかく疑問に思った事を関係者にぶつけてみて、反応を見てみたのだろう。富岡となった私に会いに来たのもその一環に違いない。

 しかし、私は記憶を失っている事になっている上に、まだ上手くしゃべれないから、応対は真理子がしてくれた。その真理子が刑事たちを追い払ってくれたのはありがたかった。あの刑事たちには、私の反応を見る事はできなかっただろう。

 

 しばらくして真理子は落ち着くと、「もう刑事たちが来ても病室には入れないわ」と言った。

「向こうも仕事だから、しょうがないだろう」

「あなたは平気なの」

「俺には関係のない事だから、平気だよ」

 私は努めて平静を装って言った。私がそう言ったので、「考えてみればそうよね。あんな人たち、気にする事なんかないわね」と真理子も同意した。

「そうだよ。それより、会社移転の方が大事だ」

 私はプリントアウトされた一枚を取り上げて「この青山にある****ビルの六階ってのはどうだろう。三百八十一.二六平米で月五百六十八万七千七百四十円、保証金十二ヶ月っていうのは手頃じゃないか」と言った。

「青山の一等地にあるわね」

「ああ」

「明日、会社に行ったら、当たってみるわね」

「うん。それから欲しいものがあるんだ」

「なあに」

 私はパソコン雑誌の広告のところを開いて「これなんだが」と切り出した。そこには新発売のラップトップパソコンが載っていた。

「ここにいてもパソコンがないと落ち着かない」

「あなたは養生していればいいのに」

「もう十分、休養はした。退屈でしょうがないんだ。パソコン雑誌や週刊誌を読んでいるのも飽きたし」

「わかったわ。でも、パソコンを持ち込んでもいいのかしら」

「看護師に訊いてきてくれないか」

「そうするわ」

 真理子は出て行った。

 私はパソコン雑誌を眺めてモデムも決めていた。

 真理子は看護師を連れてきた。彼女は部屋を見渡して、「ここにパソコンを入れるんですか」と訊いた。

「ええ、でもラップトップパソコンといって、極めて小さいものです」

 真理子が間に入って、私の言葉を看護師に伝えようとした。しかし、「大丈夫です、わかりますから」と看護師は言った。それから「前例がありません」と言った。

「それはそうでしょう。最近出たばかりの機種ですから」

 私は看護師の前例がないと言った言葉を無視し、雑誌の広告を見せて「これです」と説明した。

「事務長と相談して、後でお返事するという事でいいですか」

「ええ、それでいいです。それとそこの電話線使えますか」

「これですか」

「ええ。それなら電話を使ってもいいですか」

「特別な許可がいりますよ」

「構いません」

「わかりました。その件も事務長に相談してみます」

「お願いします」

 

 看護師が出て行くと、真理子が「電話ならわたしがするのに」と言った。

「それにあなたの声じゃ……」

「電話が使いたいわけじゃないんだ」

「何なの」

「電話線が使いたいんだ」

「どういう事」

 君には……と言い出そうとして、前に「真理子」と呼んだ事を思い出した。呼び名は、極力、名前で呼ぶ事にした。

「真理子には分からないかも知れないが、パソコン通信がしたいんだ。それができれば、会社にいなくても、ここから指示が出せる」

「そうなの」

「ああ」

「へえ~。便利なのね」

 そう話している時に、看護師が来た。

「最近、使われ出した携帯電話のように電波が出るものじゃありませんよね」

「ええ、それは保証します」

「では、この書類に持ち込む物の品名と用途を書いてください」

 私は上手く字が書けないから、その用紙は真理子に渡した。

 私の名前と住所、電話番号を書き、品名のところには「ラップトップパソコン」と書いた。用途は、「プログラミング、パソコンソフトの使用及びパソコン通信」とし、最後の日付の欄は「一九八*年九月*日」と書き入れた。

 印のところだけ、私が何とか富岡と書いて○で囲んだ。

「次はこれです」

 今度は電話使用許可の書類だった。保証金が十万円だった。

「高いですね」

 その保証金の額を見て、真理子が言った。

「ここから外国に電話をする人も多いんですよ」と看護師は答えた。

 その書類も真理子が書いて、印のところだけ私がサインをした。

「ここの電話番号は〇三-***-****です」

 看護師は書類の写しを渡しながら、その下の方に書いてある電話番号のところを示した。

 それを見て、改めてここが東京都だと思った。

 事故を起こしたのは、長野県だった。救急車で近くの病院に搬送された。状態が悪くて、一刻を争っている状況だった。上半身に火傷を負っている上に、顔を始めとして至るところが骨折していて、内臓の損傷も激しかった。そこでは処置しきれなかったから、容態が落ち着くのを待って、東京の大病院まで運ばれてきたのだった。

「電話料金は退院後の精算になります。郵便局の振込用紙に金額が書き込まれていますから、それで払い込んでください。後で電話機を持ってきますね」

 看護師がそう言ったので、うっかり「電話機はいらない」と言いそうになって、その言葉を私は飲み込んだ。パソコン通信をするだけならモデムがあれば電話機自体はいらない。しかし、電話を使わないとも限らなかったからだ。

 

 真理子には、ラップトップパソコンの製品名とモデム、そして電話線ケーブルを購入してくるようにメモさせた。そして、この病室宛に届けるように伝えた。

「わかったわ」と言った真理子は、夕食前に出て行った。私が彼女を急かせたのだった。