小説「真理の微笑 真理子編」

三十七

 社長室を除いて、相変わらず会社は騒然とした中で仕事は続けられていた。

 午後になって、高木が新社屋の資料をプリントアウトしたものを持ってきた。

「一応、十二件ほどの物件をピックアップしてみました」

「そう。じゃあ、早速、富岡に見せるわね」

「ええ、そうしてください」

 滝川に早退する旨を伝えると、高木が持ってきた物件資料を封筒に入れて、ショルダーバッグの中に入れた。

 病室に着くと、富岡がちょうどリハビリを終えた後で、車椅子からベッドに移ると、看護師は車椅子を持って病室から出ていった。

 真理子は富岡とキスをすると、ショルダーバッグの中に入っていた封筒を取り出し、プリンタで打ち出した社屋の資料をベッドの上のテーブルに広げた。

「大体、こんなところね」

「今の所は何平米なんだ」と訊くので、「そうね。二百はないわね、百九十ぐらいかしら」と答えた。

「だったらその二倍ぐらいの所にしろよ」と富岡は簡単なことのように言った。

 真理子は「あなた、一体いくらかかると思っているのよ」と呆れたような顔をすると、富岡は「せいぜい月五百万ぐらいだろう」と平然と言った。

 そんな話をしている最中に、看護師が入ってきた。

「今、警察の方が来ているんですけれど、お通ししていいでしょうか」

 真理子は「またなの」と言った。

「ええ」と看護師は言うと、「入ってもらえ」と富岡は言った。

「わかりました」

 看護師が出ていくと、二人の刑事が入ってきた。

 一人は中肉中背のがっしりした中年の男性で、もう一人は少し若い背の高い男性だった。警察手帳を見せて、体格のいい方が「野島です」と言い、もう一人が「宮川です」と名乗った。

 真理子は二人に椅子に座るように勧めると、自分は病室の隅の窓辺に立って外を見ていた。

 真理子は、刑事の方を向かずに「今日は何の用なんですか。事故のことならもう済んだんでしょう」と強い口調で言った。

「いや、私たちは長野県警の者ではないんですよ。警視庁です」

「えっ」と真理子は驚いた。確かに二人は初めて見る顔だった。真理子は窓から離れると、二人の側に立った。

「いや、二ヶ月ほど前に高瀬夏美さんからご主人の捜索願が出されていましてね、それを調べているんです」

 真理子は高瀬夏美と聞いて、びっくりした。富岡が、譫言で叫んだ名前が「夏美」だったからだ。

 高瀬夏美……。

 真理子の頭の中をその名前がぐるぐると回った。

 富岡の顔を見た。別に変化は見られなかった。だが、何か不安めいたものが心を過った。

 真理子は自分の気持ちを打ち消すかのように「そのことがうちと何か関係があるんですか」ときつい口調で言った。

 がっしりした方が「高瀬隆一さんの乗用車が茅野の駐車場から見つかったんですよ」と言った。

「茅野?」

 真理子は自分がそう呟いているのもわからなかった。茅野と言えば、別荘への入口にあたる所だった。

 真理子の顔色を見た年配の刑事は「不思議でしょ」と言った。

 そして、富岡の方を向いて「茅野と言えば、富岡さん、あなたの別荘がある蓼科に行く通り道ですよね」と言った。

 富岡は「何を言っているんですか」としゃがれた声を出していた。その声に二人は驚いたようだ。真理子が富岡に代わって言い直した。

「二ヶ月前と言えば、あなたが事故に遭われた頃ですよね。これ、偶然ですかね」

 真理子は「何が言いたいんですか」と言った。

「元の従業員の人にも話を聞いたんですよ。中島さんと岡崎さんだったかな。二人の話では、この春頃に画期的なワープロソフトを発売する予定だったということらしいんですね。何でもワープロソフトなんだけれども、表計算ソフトみたいなことができるとかなんとか」

「それがどうしたんですの」と真理子が言った。

「それって、トミーワープロとそっくりだったと言うではないですか。どういうことなんですかね」

「何を言いたいんですか」と真理子が怒り声で言った。

「ですから……」

「帰って下さい。そんな話、聞きたくもないわ。その高瀬とかいう人の失踪と何の関係もないことじゃないですか」

「関係があるかも知れないから、お尋ねしてるんです」

「関係なんてあるわけないじゃないですか。失礼しちゃうわね」

 真理子は本気で怒っていた。

「もう、いいでしょう。帰って下さい」

 真理子の剣幕に追い立てられるようにして、二人は病室を出ていった。しかし、帰りがけに年配の方が「また、お邪魔するかも知れませんよ」と言った。

「何て人たちなの」

 真理子は肩で息をしていた。

 二人の刑事が出ていくと、「何あれ」と真理子はまだ怒っていた。

「その誰かの失踪とあなたの事故がどう関係があると言うのよ。邪推もほどほどにして欲しいわ。もう刑事たちが来ても病室には入れないわ」と真理子は言った。

「向こうも仕事だから、しょうがないだろう」

「あなたは平気なの」と真理子が訊くと、富岡は「俺には関係のないことだから、平気だよ」と答えた。

「考えてみればそうよね。あんな人たち、気にすることなんかないわね」

「そうだよ。それより、会社移転の方が大事だ」と言った富岡は、プリントアウトされた一枚を取り上げて「この青山にある****ビルの六階ってのはどうだろう。三百八十一.二六平米で月五百六十八万七千七百四十円、保証金十二ヶ月っていうのは手頃じゃないか」と言った。

「青山の一等地にあるわね」

「ああ」

「明日、会社に行ったら、あたってみるわね」

「うん。それから欲しいものがあるんだ」

「なあに」

 富岡はパソコン雑誌の広告のところを開いて「これなんだが」と切り出した。そこには新発売のラップトップパソコンが載っていた。

「ここにいてもパソコンがないと落ち着かない」

「あなたは養生していればいいのに」

「もう十分、休養はした。退屈でしょうがないんだ。パソコン雑誌や週刊誌を読んでいるのも飽きたし」

「わかったわ。でも、パソコンを持ち込んでもいいのかしら」

「看護師に訊いてきてくれないか」

「そうするわ」と言って、真理子は病室を出てナースステーションに向かった。

 真理子は看護師を連れて病室に入っていった。

 看護師は病室を見渡して、「ここにパソコンを入れるんですか」と訊いた。

 富岡はしゃがれ声で「ええ、でもラップトップパソコンと言って、極めて小さいものです」と言った。

 真理子は、富岡の言ったことを看護師に伝えようとしたが、「大丈夫です、わかりますから」と看護師は言った。それから「前例がありません」と言った。

 富岡は「それはそうでしょう。最近出たばかりの機種ですから」と言って、パソコン雑誌を広げて、そこに載っている広告を見せた。そして「これです」と指で指し示した。

「事務長と相談して、後でお返事するということでいいですか」

「ええ、それでいいです。それとそこの電話線、使えますか」

「これですか」

「ええ。それなら電話を使ってもいいですか」

「特別な許可が要りますよ」

「構いません」

「わかりました。その件も事務長に相談してみます」

「お願いします」

 看護師が出ていくと、真理子が「電話ならわたしがするのに」と言った。

「それにあなたの声じゃ……」

「電話が使いたいわけじゃないんだ」

「何なの」

「電話線が使いたいんだ」

「どういうこと」

「真理子には分からないかも知れないが、パソコン通信がしたいんだ。それができれば、会社にいなくても、ここから指示が出せる」

「そうなの」

「ああ」

「へえー。便利なのね」

 そう話している間に、看護師が来た。

「最近、使われ出した携帯電話のように電波が出るものじゃありませんよね」

「ええ、それは保証します」と富岡が応えた。

「では、この書類に持ち込む物の品名と用途を書いてください」

 看護師は富岡に用紙を渡したが、「上手く字が書けないから」と言って、その用紙を真理子に渡した。

 真理子は富岡の名前と住所、電話番号を書き、品名以下のところは富岡から言われたように書いた。最後のサインは富岡が下手な字で書いて○で囲んだ。

「次はこれです」

 今度は電話使用許可の書類だった。保証金が十万円だった。

「高いですね」

 その保証金の額を見て、真理子が言った。

「ここから外国に電話をする人も多いんですよ」と看護師は答えた。

 その書類も真理子が書いて、印のところだけ富岡がサインをした。

「ここの電話番号は〇三-***-****です」

 看護師は書類の写しを渡しながら、その下の方に書いてある電話番号のところを示した。

「電話料金は退院後の精算になります。郵便局の振込用紙に金額が書き込まれていますから、それで払い込んでください。後で電話機を持ってきますね」と看護師は言って出ていった。

 富岡は真理子に手帳を出すように言った。

 真理子が自分の手帳を出すと、富岡はラップトップパソコンの製品名とモデム、そして電話線ケーブルを購入してくるように言った。

 そして「この病室宛に届けてもらえるとありがたいんだが」と言った。

 真理子は「わかったわ」と言って病室を出た。午後六時前だった。