小説「僕が、警察官ですか? 3」

十二

 夕食は赤ちゃんの話題で盛り上がった。

 ききょうが一番興味を示した。

「早く、赤ちゃんに会いたいな。男の子かしら、女の子かしら」

 京一郎は「ぼくは弟が欲しいな。妹でもいいけれど」と言った。

 きくは「どちらにしても、仲良くしてあげてね」と言った。

「それはもちろん」とききょうが言うと、「ぼくも」と京一郎も言った。

「じゃあ、ききょうと京一郎も新しい赤ちゃんができたら、新しい赤ちゃんの面倒を見るんだぞ」と僕が言うと、二人とも「はーい、わかりました」と言った。

 

 夕食後、ダイニングテーブルが片付けられると、きくはすぐに母子手帳を持ってきた。そして、ボールペンを渡してくれながら、「子の保護者」欄を開いて見せた。

「ここにあなたの名前を書いてください」と言った。

 僕は二段に分かれている保護者欄の上の段に氏名を書いた。

 それを書いている時、また父親になっていく実感を覚えた。と同時に責任も感じた。

「これでいいか」と言うと「ええ」と答えた。

 母子手帳とボールペンをきくに渡す時、今、抱えている事件について考えた。

 署長に報告書を渡すことさえできなかったのだ。もう一度やっても同じことだろう。だったら、その上に報告書を見せるしかない。黒金署は、警視庁第四方面に所属している。したがって、もし報告書を送るとなれば、警視庁第四方面本部・本部長宛になるだろう。だが、それは最終手段だ。警視庁第四方面本部・本部長宛に報告書を送るとなれば、自分の身分を賭してまでということになるかも知れなかった。僕は警察官を辞めるつもりはないが、そうせざるを得なくなる可能性はあった。

 

 夜になり、寝室のベッドできくが眠ると、僕は時を止めて、鞄からひょうたんを取り出し、ダイニングルームに行った。そして、ひょうたんの栓を抜いた。

「赤ちゃんができたんですね。おめでとうございます」と言った。

「ありがとう」

「浮かない顔をしていますね」

「ああ、あやめの努力が無駄になってしまった」と言った。

「そんなことはどうでもいいのですよ。わたしは主様の役に立てれば、嬉しいんですから」と言った。

 僕は黙ってあやめを抱き寄せた。

 

 木金と何事もなく過ぎていった。ただ、木曜日には、署長に破り捨てられた報告書をプリントアウトして、家に持って帰ってきていた。そして封筒に入れて、書棚にしまった。

 土日は、僕は休んだ。精神的に疲れていた。

 もう方法はないのか、行き止まりなのか、そればかりが頭を駆け巡った。

 

 月曜日は、西新宿署で剣道の稽古がある日だった。だから、剣道の道具を持って家を出た。ひょうたんは、自宅の僕の机の引出しの中だった。

 山田は今日も取調を受けているというのに、何となく一日が過ぎていった。

 退署時刻が来ると、僕は剣道の道具を持って、安全防犯対策課を出た。そして、西新宿署まで歩いた。

 西新宿署に着くと、更衣室で剣道着に着替えて、道場に出た。西森が待っていた。

「今日は試合形式でいきませんか」と言うので、「いいでしょう」と答えると、主審役を選んで始めた。

 コートの外に立ち、向き合うとコート内に二歩入り、礼をした。それから、開始線まで行き、蹲踞の姿勢を取ってから、脇に収めていた竹刀を相手に向けた。

 主審が「始め」と言った。僕らは、立ち上がった。西森は僕の無反動を知っているから、攻め込んで来ない。こちらが、攻め込んでも逃げている。僕は無理矢理、隅に追い詰めて、竹刀を合わせ、無反動で竹刀を弾くと、小手を打った。

 次の勝負も似たような展開になった。西森が逃げて、僕が我武者羅に追った。そして、竹刀を弾いて、胴を取った。

 その次も、その次も同じような試合内容になった。そうして、十回ほど戦った時に、西森が面を取り、親指を立てて「上に行きませんか」と言った。

「そうしましょう」と僕も答えた。

 シャワーで汗を流して、着替えると、ラウンジに上がって行った。

 お互い自販機で缶コーヒーを買うと、テーブル越しに座った。

「今日の鏡警部は我武者羅でしたね」と西森が言った。

「そうでしたか」

「ええ。何かあったんですか」と訊いた。

 僕は「少し嫌なことが」と答えた。

 すると、西森は「ここだけの話として聞きますよ」と言った。

「そうですか。聞いてくれますか」

「ええ」と西森は言った。

「じゃあ、聞いてもらいましょう」と僕は言い、これまでの経緯を話した。

 西森は静かに聞いていた。そして、聞き終わると、「なるほどそういうことですか」と言った。

「ええ」

「確かに八方塞がりですね」

「そうなんですよ」

「でも、警視庁第四方面本部長に直談判するのは止めておいた方がいいですよ」と言った。

「何故ですか」

「取り上げてもらえないからです」

「そうなんですか」

「ええ」

「そんな」

「それに、仮にの話ですが、取り上げられたとしたら、あなたの出世に響きますよ」と言った。

「何故ですか」

「警察は縦社会です。こうした横やりは嫌われるんです。特に、わたしのようなノンキャリには。警察の組織はノンキャリがほとんどなんですよ。それを敵に回したら、やっていけなくなりますよ」と言った。

「気遣いもしないで、申し訳ありませんでした」と僕は謝った。

「それは、いいんです。とにかく、その放火事件は、黒金署の捜査一課二係がやっているんでしょ。彼らに任せるしか方法がありません。後は取調を受けている山田という人が自白しないことを願うばかりです。それしか方法はありません」と西森は言った。

「ご忠告、ありがとうございました。肝に銘じておきます」と僕は応えた。

 

 西新宿署から家に帰りながら、西森の言っていたことを考えた。

『後は取調を受けている山田という人が自白しないことを願うばかりです』という言葉がやけに耳についていた。

 山田に自供させないことなんてできるのだろうか。どう考えても、無理だった。しかし、励ますことならできるかも知れなかった。

 山田の心を折れなくさせればいいのだ。

 それならできるかも知れない、と思った。

 

 次の日、ひょうたんを鞄に入れて、家を出た。

 安全防犯対策課に行くと、自分の席に鞄を置き、中からひょうたんを取り出して、ズボンのポケットに入れた。

 緑川に「ちょっと席を外す」と言って、安全防犯対策課を出た。

 向かったのは四階だった。庶務課や会計課や相談窓口などがある場所だった。その廊下の端に向かった。その廊下の上の階のすぐ隣の部屋で取調が行われていた。

 ズボンのポケットのひょうたんを叩いた。

「はーい」と言うあやめの声が聞こえた。

 僕は心の中で「これから、思っている映像を山田に送れるか」と訊いた。

 あやめも声を出さずに「送れます」と答えた。

「じゃあ、送ってくれ」と言った。

「わかりました」とあやめは言った。

 僕は、頭の中で、報告書に書いた文章を思い出しながら、それに添付されている写真も思い浮かべた。そして、警察の中には、あなたが犯人でないことを知っている者がいる、というメッセージを強く念じた。

 今、取調を受けている山田の頭には、このメッセージが届いているはずだ。勇気が湧いたのに違いなかった。

「送りました」というあやめの声が心の中でした。

「それで山田の反応はどうだった」と訊くと「今、見てきます」と答えた。

 しばらくしてあやめは戻ってきた。そして、山田の心の中を僕に送ってきた。

『やっぱり、そうなんだ。俺の無実を信じてくれている警察官がいるんだ。俺はやっていないんだから、絶対に自供はしないぞ』という山田の心の声が聞こえてきた。