五
月曜日だった。今日は、西新宿署に行って剣道をする曜日だったので、剣道の道具を持って、家を出た。
黒金署に着くと、山田の取調は今日も続いていた。
僕は安全防犯対策課に入ると、デスクに着いた。
緑川が自分の席から僕に向かって、「取調は難航しているようですね」と言った。
「そうか」
そうだろうな、と僕は思った。山田はやっていないんだから。
「でも、捜査一課二係の人に訊いたら、彼が本ボシだと思っているようですよ」と緑川が言った。
「そうなのか」と僕は驚いて訊いた。
「ええ、絶対に落としてやると言ってましたから」と緑川は答えた。
何ていうことだ。彼は犯人じゃないんだ。
僕が心の中でいくら叫んでも誰にも聞こえはしない。こうなれば、喜八の犯行を証明するか、山田が白であることを証明するかの、どちらかしか方法がない。今は、四月二十九日の放火事件について、鑑識がどういう報告をしたのかが気になるところだが、それを無関係の者が読むことはできない。とすれば、山田の潔白を証明するしかない。明日、ひょうたんを持ってきて、取調の様子を見させてくれと、捜査一課二係の係長に掛け合ってみるか、と思った。しかし、これは断られることは目に見えていた。しかし、取調が行われている場所は分かる。少し、離れているが、あやめなら山田の頭に入れるかも知れなかった。その可能性に賭けてみる気になった。
捜査一課の方は忙しそうだったが、安全防犯対策課は暇だった。僕は雑用をこなして退署時間を待った。
退署後は、剣道をしに西新宿署に行くことになっていた。
退署時間が来たので、鞄と剣道の道具を持つと「お先に」と言って、安全防犯対策課を出た。歩いて西新宿署まで行った。三十分かかった。
剣道着に着替えて道場に行くと、西森が待っていた。
今日は試合形式ではなく、純粋に打込みの稽古をした。僕が元立ちになって、西森に打ち込ませた。それを一時間近く休まず続けた。さすがに西森は疲れたようだった。
「今日はこのくらいにしますか」と僕が言うと、「まだまだ」と西森は答えた。
「でも、西森さんに訊きたいことがあるんですよ」と僕が言うと、彼は親指を上に向けて、「ラウンジに行きますか」と言った。
「いいえ、簡単なことなので、着替えながら話します」と言った。
「では、そうしましょう」と西森は言った。
更衣室に行き、剣道着を脱ぐと、シャワーを浴びた。躰を拭いて出て来ると、西森がシャワー室から出て来るのを着替えながら待った。
西森が出て来た。西森はバスタオルを腰に巻いて、ベンチに座った。
「で、訊きたいことは何ですか」と言った。
「着なくてもいいんですか」と言うと、「少し、熱を冷ましてから着ますよ」と言った。
「そうですか。では、伺います。もし、犯人でない者が逮捕され、取調を受けているとします。しかし、取り調べている方は、被疑者を犯人だと信じて疑わない。こうした場合、どうすればいいですか」と訊いた。
「例の黒金町で起こった連続放火事件のことを言っているのですか」と西森は訊いた。僕は、さすがに鋭いな、と思いながら、「いや、一般論として訊いています」と言った。
「それなら取調をしている者に任せるしかありませんね」と西森は答えた。
「被疑者が白だと分かっていてもですか」と僕は言った。
「ええ、そうだとしても、警察は組織で動いています。それを覆すとしたら、被疑者が白だという明白な証拠を提示するしかありません」と西森は言った。もっともな意見だった。
西新宿署を出て、歩いて自宅まで帰った。
すぐに、京一郎と風呂に入った。『被疑者が白だという明白な証拠を提示するしかありません』という西森の言葉が何度も頭の中を巡った。
「そうなんだよな」と呟いていた。
「パパ、何か言った」と京一郎が訊いた。
「いいや、独り言だ」と答えた。
僕らが風呂から出ると、ききょうが入れ替わるように風呂に入っていった。
僕はリビングルームに行き、テーブルに着くと、枝豆をつまみながらビールを飲んだ。
「何か気にかかることでもあるんですか」ときくが訊いた。
「気にかかっていることがあることが、きくには分かるのか」と訊き返した。
「ええ、わかりますとも、ビールの飲み方で」と答えた。
「何も気にかかることがないときは、実に美味しそうに飲みますもの」と続けた。
「そうか。ビールの飲み方一つでも分かるのか」と僕は言った。大したもんだな、と思うと同時に、自分も僅かな事柄でも見落とさないようにしなければならない、と肝に銘じた。
翌朝、僕はひょうたんを鞄に入れると、家を出た。
署に着くと、安全防犯対策課に行き、鞄からひょうたんを出して、ズボンのポケットに入れた。山田の取調は、すでに始まっていた。
「ちょっと、出かけてくる」と緑川に言って、安全防犯対策課を出た。そして、エレベーターホールに行くと、取調室のある五階に向かった。
五階で降りると、巡査が立っていて、「この先はお通しできません」と言った。
「そっちのトイレに行くだけだよ」と言うと、「他の階にもトイレはあるでしょう」と巡査は言った。
「そうなんだが、間違って五階を押してしまった。今、腹を壊していて急ぎなんだ。済まんが、トイレに行かせてもらうよ」と言った。
「そういうことなら、どうぞ」と巡査は言った。
僕は取調室とは反対側にあるトイレに向かった。そして、個室に入ると、ドアを閉め、ひょうたんを叩いた。
「あやめ、聞こえるか」と言った。
「はーい。聞こえます」とあやめは言った。
「取調室はこの階の一番奥の部屋だ。そこに少なくても三人の者がいる。一人は取調官でもう一人は記録係だ。真ん中の机に、取調官と山田が向き合うように座っている。あやめは山田宏の頭の中を読んできてくれ。できるか」
「わかりませんが、やってみます」
「では、行ってくれ」
「はーい」とあやめは言った。
あやめは取調室の方に向かったのだろう。同じ五階とはいっても、正反対のところに取調室はある。しかも、中に何人いるのか分からない。あやめに言ったように、少なくとも三人いることは確かだ。他にもいるかも知れなかった。ここは、あやめに賭けてみるしかなかった。
僕は狭い個室の中で、あやめが戻ってくるのをひたすら待った。