小説「僕が、剣道ですか? 1」

十九ー2

 教えられたとおりに歩いて行くと、堤道場と看板の掛かったところに来た。門を開けて中に入ると、若い娘が出てきた。きくと同じか少し年上のように見えた。

「入門者ですか」と訊いた。

 僕は「いや、道場主に会いたくて来ました」と言った。

「道場破りですか」

「いやいや、そんなんじゃありません。ただ、会いに来たのです」と答えた。

「失礼しました。どうぞ、こちらへ」

 玄関で、刀を鞘ごと帯から抜いて手に持った。相川も同じようにした。

 座敷に通された。刀は右側に置いた。

 しばらくして、道場主が現れた。

 中年に入りかかった頃ぐらいの年齢に見えた。

「堤竜之介と申します。そちらは」

「私は鏡京介と言います。こちらの者は相川小次郎と言います」

「ご用件は何ですかな」

「用件はありません」

「用件はないですと。では、何しに来られたのですか」

町道場というものを見たことがないので、どういうものかと思って来ました」

 その時、先程、現れた娘がお茶を入れてきた。

「この子は、たえと言います」

「たえです。ごゆっくりどうぞ」と言って出て行った。

「そなたは随分と若いが幾つかな」と訊かれたので、数え年で「十七です」と答えた。

「ほう、たえと同じ年ですな」と言った。

 あの娘は僕と同じ歳か、と思った。この時代ではどうか分からないが、現代では、細面で小顔の美人だった。

「道場からは、稽古の声が聞こえてきませんね」

 そう言うと堤は「情けない話ですが、最近、門弟がすっかりいなくなりました」と言った。

「それはまたどうして」

「家老職の島田家に道場ができたそうで、皆、そちらに取られました」

 僕と相川は顔を見合わせた。

「ただで、剣術が教えてもらえるんだから、みんな、そっちに行きますよね。それに道場主は、あの盗賊一味を成敗したと言うではありませんか。皆、あの盗賊たちの傍若無人ぶりには困っていましたからね。道場主の名声も上がり、誰もが稽古を付けてもらいたいと思うのも当然です」

 僕は困った顔もできずに、茶を啜るしかなかった。

 その時だった。

「待ってください」と言うたえの声が玄関から聞こえて来た。しかし、その声は「ああ」と言う押し倒されたような声に変わった。

 間もなく、玄関を上がる音がして、襖が開かれた。

「客人が来ている。控えてもらおう」

 堤はそう言った。

「そうはいくか。今日は、金を耳を揃えて払ってもらうからな」とその者は言った。

 僕は振り向いた。

 厳つい顔の男が、見えるだけで用心棒を二人付けてやってきていた。外にまだいるかも知れなかった。

「もう少し待ってもらえぬか」

「先月もそう言っていたよな。もう待てねぇ。返せないとなれば娘を連れて行く」

「必ず返す。今は待ってくれ」

「だから、もう待てないと言っているだろう。娘は連れて行く」

「力ずくでも渡さん」

「この前は、二人で来て失敗したが、今度はそうはいかん。前の者たちよりも腕の立つ者を五人集めたからな。いくら先生が強くても五人相手では歯が立たないだろうぜ」

 厳つい顔をした者は、薄ら笑った。

 僕は聞いているうちに腹が立ってきた。

「待て」

「なんだ、若造が」

「五人相手で歯が立たないかどうか、やってみようか」

「なんだと。小僧だと思っていれば、洒落た口を叩きやがって」

「まあ、軽く運動をする前に借りた金子を聞いておこうか」

「五両だ」

「そんな馬鹿な。借りたのは二両だ」

 堤がそう怒鳴った。

「金には利息というものが付くのはご存知でしょう。それにこうして取り立てに来れば、それなりにこれらの者にも支払わなければならない。いわば取立て代も含んでるんですよ」

 僕は「分かった。この者たちにも取立て代は払われるんだな。それなら働いてもらわないと困るよな」と言った。

 僕は右に置いた刀を左の帯に差した。

「やると言うのか。若造が」

「その若造と言うのは、止めてもらえないかな。こっちの怒りを買うだけだぞ」

 相川はおろおろしていた。

「お前はここに座っていろ」

 僕は玄関に出て、草履を履いた。

 二人がたえを掴んでいた。

「娘を離せ」

「そうはいくか。金を払うまでは娘は人質だ」

「そうか。後悔しても知らんぞ」

「何を言ってやがる。こっちは五人なんだぞ」

「それがどうした」

「五人だと言っているんだ」と厳つい顔をした男が言い終わらぬうちに、たえを掴んでいた男二人が腕をだらんと下げ、帯を切られて前がはだけていた。

「な、何をしたんだ」

「見えなかったろう。峰打ちさ。骨までは折っていないから、今は痺れているだけだ」

 僕は相手に見えるように、刀を鞘に収めた。

「これが居合い抜きだ。刀を鞘から抜きざま、相手を切る戦法だ」

 厳つい男は腰を抜かしていた。

「さあ、後の三人は私とやり合いたいかな。今度は峰打ちでは済まないかも知れないよ」

 用心棒の三人はすっかり怖じ気づいていた。

 僕は尻餅をついている厳つい男の前にかがみ込むと、彼は斬られると思ったのか目を閉じた。

「斬りはしないよ。それじゃあ、こっちの首が飛ぶ」

 厳つい顔の男は、恐る恐る目を開けた。

「手を出しな」

 男は手の甲を向けて差し出してきた。

「そうじゃない。こうだ」と手の平を上向きにした。

 僕は巾着を開けて、彼の手の平に小判を五枚載せた。

「これで借金はなくなったよな」

 男は頷いた。

 相川が「先生、証文を」と言った。

 そうか、証文を取り返さないとまたやってくる恐れがあるな、と思った。

「証文は持ってきたんだろうな」

 厳つい顔の男は頷いた。そして金を懐に入れると、代わりに証文を取り出した。

 僕はそれを受け取ると、堤に渡して「確かに、証文ですか」と訊いた。

「確かに」と堤は答えた。

「じゃあ、これで貸し借りはなしだ。そうだな」

「はい」

「うせろ」

 厳つい顔の男と用心棒たちは、逃げるように門から出て行った。

 彼らがいなくなると、堤は玄関で手を突いて頭を下げた。

「娘が危ないところをお助け頂き、かたじけのうござる」

「なんの、大したことではありません」

「このまま、お返しするわけにはいきません。どうか、もう一度座敷に」

「いやいや、お気遣いなく」

「せめて夕餉でも」

「夕餉はもう先約がありますので」

「だったら、お茶をもう一杯でも」

 僕は仕方ないと思って、草履を脱ぎ、玄関を上がった。刀は帯から抜いて右側に置いた。

 しばらくして、たえがお茶を運んできた。そして、茶碗を置くと、両手を突いて「危ないところをありがとうございました」と言った。

「怪我がなくて良かったですね」

 そう言うと、たえは僕の方を見て、「あなた様に助けて頂きましたもの」と言った。

「助けるだなんて、大袈裟な」

 たえは、ぽっと顔を赤らめて「失礼します」と下がっていった。

「鏡殿。これでも私は武士でござる。施しを受けるわけにはいかないので、少しずつでも返済したいのですが、どこにお住みですか」

 僕は困った。相川の顔を見た。代わりに答えてくれ、と目で合図した。

 相川は「先生は、家老の屋敷に逗留しています」と答えた。

「家老というと島田様の屋敷ですか」

「そうです」

「えっ、ということは、あなたが盗賊を成敗したというお方ですか」

「そうです」と相川が答えた。

「道理で、私にもあの二人をどう倒したのか見えませんでした」

 僕は答えようがなかった。

 結局、相川に話は任せて、僕は黙ったまま茶を飲み干すと、おいとまをした。

 帰り道、相川が「やはり先生は凄いですね。一瞬にしてあの二人をやっつけたんだから」と言った。

「今日のは、内緒だぞ」

「いいえ、これを話さなくて何を話すと言うのですか」

 ああ、と僕は溜息をついた。

 

 屋敷に戻り、すぐに座敷に向かった。きくが来るのを待って、二つの櫛を渡した。

 一つはすぐに頭に差してみたが、もう一つの方は手にしたままだった。

「こんな高価なものを」と言ったきり、黙ってしまった。僕はその櫛を手に取ると、今している櫛を抜き、その櫛をきくの頭に差した。

「似合っているよ」

「でも、普段は使えません」と言った。

「この部屋に入ってきた時だけ使えばいいだろう」と言うと、嬉しそうにしていた。