十九
次の日も選抜試験は、朝早くから始まっていた。今日で一通りの対戦は終わる。それでも百十七人が残る。
明日は道場は休みの日だから、明後日はその百十七人が戦う。それでもその日に入門者は決まらない。翌日、もう一度戦って、ようやく入門者が決まる。この道場に入るのにも狭き門なのだな、と僕はつくづく思った。
そして、これだけの試合数を見ていると、強い者と弱い者との差が、戦う前から分かるようになるものだと思った。
午後、全部の試合が終わると、相川を呼んだ。
「何でしょう」
「明日、町に出ようと思う。町は不案内だから、付き合ってくれぬか」と訊いた。
「いいですよ」と答えた。
「昼前に出かけよう。蕎麦屋で上手いところを知っているか」
「そりゃもう」と答えたので、「じゃあ、その蕎麦屋で昼にしよう」と言った。
「わかりました」
風呂に入り、夕餉をとると島田源太郎に「明日、町に行こうかと思っています」と言った。
「道場は休みなのか」
「ええ、一と十五の日はお休みにしました」
「そうか。一人で迷わぬか」
「道場の者を付き添わせるので大丈夫です」
「なるほど。城下も見てくるといい。気付いたことがあったら教えて欲しい」
「そうさせて頂きます」
座敷に戻ると、きくに「明日、町に行ってくる」と言った。
そう言うと、きくは明らかに付いてきたそうな表情を浮かべた。しかし、僕の世話係をしているとはいえ、女中の身分であることに変わりはなかった。勝手に屋敷から出ることは許されなかった。
「町で迷われたりはしませんか」と訊いてきた。僕が上の者に言えば、自分が付いて行けるのにと思ったのに違いなかった。
「道場の者に付き添いは頼んだ」と言うと、きくの顔にはがっかりという文字が浮かんでいた。
「きくには何か買ってこよう、何がいい」と訊いた。
「そう言われても」ときくは困っていた。
「かんざしはどうか」
僕がそう言うと、きくは「ダメダメ」と首を左右に振った。かんざしなんか挿していたら、女中たちに何を言われるか知れやしなかったからだ。
「だったら櫛を」と言って、自分が頭にしている櫛を取って見せた。櫛の歯がいくつか欠けていた。
「分かった。それにしよう。買うにはお金がいるな。この間、もらった金子はどこにある」と訊くと、きくは戸棚を開けて、その中をいじっていた。その内、二包みの金子を差し出した。
僕は一方を破って、小判を十枚ほど取り出した。
きくはすぐに「そんなには、いらないでしょう」と言った。
「男は敷居を跨げば七人の敵あり、と言うだろう。何があるか分からないからな。少し多く持って行けば心強い」
「でも……」ときくは言った。
「女遊びは駄目ですよ」
僕は笑った。
「きくは、女遊びに使うと思っていたのか。そんなことあるわけがないじゃないか」
十両の金を手にしてみると、持ちにくい。袖に入れても落ちそうだった。
僕は「財布はないのか」と言った。
きくは部屋を出て行き、やがて戻ってきた。紫色をした袋を持ってきた。巾着だった。
次の日、昼前に屋敷を相川と出た。久しぶりに外に出ると妙な開放感に包まれた。
町の通りの両側には、いろいろな店が並んでいた。
相川に「櫛を買いたいんだが」と言ったら、「おきくさんにですね」と言われた。違うとも答えられなかったので、黙って頷いた。
「それならあそこの店はどうです」と相川は、僕の着物の袖を引っ張った。
中に入ると、多くの種類の櫛が目に飛び込んできた。漆塗りをしたものから、絵が描かれているものなど、多種多様だった。
選ぶのに困った僕は「世話係をしてくれる女中に買いたいのだが、どれがいいかな」と店の者に尋ねた。
「これなんかはどうですか」とごく平凡な櫛を持ってきた。きくがしていた櫛と似ていた。僕は「それをもらおう」と言いながら、漆塗りで絵の入っているのも手にして渡した。
すると店員は「これは女中のような人ではなく、もっと身分の高い人が使うものですよ」と言った。僕がお金を持っていないと見えたからそう言ったのか、本当にそうだったのかは分からなかった。しかし、僕はきくにはどうしてもその華やかな櫛を買ってあげたいと思ったのだ。
懐から巾着を出し、一両を渡した。店の者は「えっ」と言った。
「細かいのはないんだ」
店の者は、番頭にその一両を渡して、釣り銭を計算してもらっていた。
櫛は箱に入れられて渡された。釣り銭は、かなりの枚数になって、巾着が重くなった。
歩き出すと、「先に蕎麦屋に行かなくて良かったですね」と言われた。
「どうして」
「釣り銭がないですもの」
「一両ってそんなに大金なの」
「そうですよ」
「そうか。じゃあ、次は蕎麦屋に入ろう」
蕎麦屋に入って、かけそばを二人前頼んだ。できてくる間に店の者に、町道場の場所を訊いた。通りを東に向かって行き、二つめの辻を曲がった先だと教えられた。
蕎麦を食べ終えると、代金を置いて表に出た。
教えられたとおりに歩いて行くと、堤道場と看板の掛かったところに来た。門を開けて中に入ると、若い娘が出てきた。きくと同じか少し年上のように見えた。
「入門者ですか」と訊いた。
僕は「いや、道場主に会いたくて来ました」と言った。
「道場破りですか」
「いやいや、そんなんじゃありません。ただ、会いに来たのです」と答えた。
「失礼しました。どうぞ、こちらへ」
玄関で、刀を鞘ごと帯から抜いて手に持った。相川も同じようにした。
座敷に通された。刀は右側に置いた。
しばらくして、道場主が現れた。
中年に入りかかった頃ぐらいの年齢に見えた。
「堤竜之介と申します。そちらは」
「私は鏡京介と言います。こちらの者は相川小次郎と言います」
「ご用件は何ですかな」
「用件はありません」
「用件はないですと。では、何しに来られたのですか」
「町道場というものを見たことがないので、どういうものかと思って来ました」
その時、先程、現れた娘がお茶を入れてきた。
「この子は、たえと言います」
「たえです。ごゆっくりどうぞ」と言って出て行った。
「そなたは随分と若いが幾つかな」と訊かれたので、数え年で「十七です」と答えた。
「ほう、たえと同じ年ですな」と言った。
あの娘は僕と同じ歳か、と思った。この時代ではどうか分からないが、現代では、細面で小顔の美人だった。
「道場からは、稽古の声が聞こえてきませんね」
そう言うと堤は「情けない話ですが、最近、門弟がすっかりいなくなりました」と言った。
「それはまたどうして」
「家老職の島田家に道場ができたそうで、皆、そちらに取られました」
僕と相川は顔を見合わせた。
「ただで、剣術が教えてもらえるんだから、みんな、そっちに行きますよね。それに道場主は、あの盗賊一味を成敗したと言うではありませんか。皆、あの盗賊たちの傍若無人ぶりには困っていましたからね。道場主の名声も上がり、誰もが稽古を付けてもらいたいと思うのも当然です」
僕は困った顔もできずに、茶を啜るしかなかった。
その時だった。
「待ってください」と言うたえの声が玄関から聞こえて来た。しかし、その声は「ああ」と言う押し倒されたような声に変わった。
間もなく、玄関を上がる音がして、襖が開かれた。
「客人が来ている。控えてもらおう」
堤はそう言った。
「そうはいくか。今日は、金を耳を揃えて払ってもらうからな」とその者は言った。
僕は振り向いた。
厳つい顔の男が、見えるだけで用心棒を二人付けてやってきていた。外にまだいるかも知れなかった。
「もう少し待ってもらえぬか」
「先月もそう言っていたよな。もう待てねぇ。返せないとなれば娘を連れて行く」
「必ず返す。今は待ってくれ」
「だから、もう待てないと言っているだろう。娘は連れて行く」
「力ずくでも渡さん」
「この前は、二人で来て失敗したが、今度はそうはいかん。前の者たちよりも腕の立つ者を五人集めたからな。いくら先生が強くても五人相手では歯が立たないだろうぜ」
厳つい顔をした者は、薄ら笑った。
僕は聞いているうちに腹が立ってきた。
「待て」
「なんだ、若造が」
「五人相手で歯が立たないかどうか、やってみようか」
「なんだと。小僧だと思っていれば、洒落た口を叩きやがって」
「まあ、軽く運動をする前に借りた金子を聞いておこうか」
「五両だ」
「そんな馬鹿な。借りたのは二両だ」
堤がそう怒鳴った。
「金には利息というものが付くのはご存知でしょう。それにこうして取り立てに来れば、それなりにこれらの者にも支払わなければならない。いわば取立て代も含んでるんですよ」
僕は「分かった。この者たちにも取立て代は払われるんだな。それなら働いてもらわないと困るよな」と言った。
僕は右に置いた刀を左の帯に差した。
「やると言うのか。若造が」
「その若造と言うのは、止めてもらえないかな。こっちの怒りを買うだけだぞ」
相川はおろおろしていた。
「お前はここに座っていろ」
僕は玄関に出て、草履を履いた。
二人がたえを掴んでいた。
「娘を離せ」
「そうはいくか。金を払うまでは娘は人質だ」
「そうか。後悔しても知らんぞ」
「何を言ってやがる。こっちは五人なんだぞ」
「それがどうした」
「五人だと言っているんだ」と厳つい顔をした男が言い終わらぬうちに、たえを掴んでいた男二人が腕をだらんと下げ、帯を切られて前がはだけていた。
「な、何をしたんだ」
「見えなかったろう。峰打ちさ。骨までは折っていないから、今は痺れているだけだ」
僕は相手に見えるように、刀を鞘に収めた。
「これが居合い抜きだ。刀を鞘から抜きざま、相手を切る戦法だ」
厳つい男は腰を抜かしていた。
「さあ、後の三人は私とやり合いたいかな。今度は峰打ちでは済まないかも知れないよ」
用心棒の三人はすっかり怖じ気づいていた。
僕は尻餅をついている厳つい男の前にかがみ込むと、彼は斬られると思ったのか目を閉じた。
「斬りはしないよ。それじゃあ、こっちの首が飛ぶ」
厳つい顔の男は、恐る恐る目を開けた。
「手を出しな」
男は手の甲を向けて差し出してきた。
「そうじゃない。こうだ」と手の平を上向きにした。
僕は巾着を開けて、彼の手の平に小判を五枚載せた。
「これで借金はなくなったよな」
男は頷いた。
相川が「先生、証文を」と言った。
そうか、証文を取り返さないとまたやってくる恐れがあるな、と思った。
「証文は持ってきたんだろうな」
厳つい顔の男は頷いた。そして金を懐に入れると、代わりに証文を取り出した。
僕はそれを受け取ると、堤に渡して「確かに、証文ですか」と訊いた。
「確かに」と堤は答えた。
「じゃあ、これで貸し借りはなしだ。そうだな」
「はい」
「うせろ」
厳つい顔の男と用心棒たちは、逃げるように門から出て行った。
彼らがいなくなると、堤は玄関で手を突いて頭を下げた。
「娘が危ないところをお助け頂き、かたじけのうござる」
「なんの、大したことではありません」
「このまま、お返しするわけにはいきません。どうか、もう一度座敷に」
「いやいや、お気遣いなく」
「せめて夕餉でも」
「夕餉はもう先約がありますので」
「だったら、お茶をもう一杯でも」
僕は仕方ないと思って、草履を脱ぎ、玄関を上がった。刀は帯から抜いて右側に置いた。
しばらくして、たえがお茶を運んできた。そして、茶碗を置くと、両手を突いて「危ないところをありがとうございました」と言った。
「怪我がなくて良かったですね」
そう言うと、たえは僕の方を見て、「あなた様に助けて頂きましたもの」と言った。
「助けるだなんて、大袈裟な」
たえは、ぽっと顔を赤らめて「失礼します」と下がっていった。
「鏡殿。これでも私は武士でござる。施しを受けるわけにはいかないので、少しずつでも返済したいのですが、どこにお住みですか」
僕は困った。相川の顔を見た。代わりに答えてくれ、と目で合図した。
相川は「先生は、家老の屋敷に逗留しています」と答えた。
「家老というと島田様の屋敷ですか」
「そうです」
「えっ、ということは、あなたが盗賊を成敗したというお方ですか」
「そうです」と相川が答えた。
「道理で、私にもあの二人をどう倒したのか見えませんでした」
僕は答えようがなかった。
結局、相川に話は任せて、僕は黙ったまま茶を飲み干すと、おいとまをした。
帰り道、相川が「やはり先生は凄いですね。一瞬にしてあの二人をやっつけたんだから」と言った。
「今日のは、内緒だぞ」
「いいえ、これを話さなくて何を話すと言うのですか」
ああ、と僕は溜息をついた。
屋敷に戻り、すぐに座敷に向かった。きくが来るのを待って、二つの櫛を渡した。
一つはすぐに頭に差してみたが、もう一つの方は手にしたままだった。
「こんな高価なものを」と言ったきり、黙ってしまった。僕はその櫛を手に取ると、今している櫛を抜き、その櫛をきくの頭に差した。
「似合っているよ」
「でも、普段は使えません」と言った。
「この部屋に入ってきた時だけ使えばいいだろう」と言うと、嬉しそうにしていた。