小説「真理の微笑 真理子編」

二十二

 真理子は、午後一時になると、須藤のところに電話した。

 真理子の提示した二百万円という数字は、当然予想していたよりもかなり低かったのだろう。しばらく沈黙が続いた。その沈黙の中には、怒りもあっただろう。

 やがて須藤が「条件があるが聞いてもらえますか」と言った。

「ええ、おっしゃってください」

「即金で二百万円、頂けますか」

「構いません」

「明日でもいいですか」と言うので、真理子は「ちょっとお待ちください」と言って電話を保留にし、内線で高木を呼んだ。

「明日なんだけれど、現金で二百万円用意できますか」と訊いた。

 高木はすぐに「大丈夫です」と答えた。

 須藤にしていた電話の保留を解いて、「結構です」と言った。すると須藤は、「午前中でも構いませんか」と言うので「構いません」と答えた。

「では午前十時に伺います」と言った。

 真理子は「契約を交わしますので、印鑑をお持ちになってください。それとこの間、お預かりしたソフトなんですが、あれは正規版ですか」と訊いた。

「正規版です。β版ではありません」

「そうですか。ではお待ちしています」

「こちらこそ。それでは失礼します」と言って、電話は切れた。

 真理子は清宮を呼んだ。一つ、不安が生じたからだった。

 清宮が社長室に入ってくると、真理子は電話の経緯を話した。

「ということは、相手はかなりお金に困っている状態なんですね」と言った。

「そうなの。そう思ったので、正規版なのかどうか訊いたんだけれど正規版だと言うの。早速で申し訳ないんだけれど、正規版なのかどうか確認してもらえますか」

「見たところ正規版のように思いますが、念のために確認します」

「よろしくお願いします」

 

 清宮が出ていくと、真理子は高木を社長室に呼んだ。

 さっきのお金がどういう種類のものなのかを話した。

「ソフトの売り込みはよくありますよ。でも、採用するソフトは年に一本あるかどうかですね」

「ということは、わたしはその一本を採用した訳ね」

「そうなりますね。相手は、かなりお金に困っていたんじゃないかと思います」

「そう思ったわ」

「有限会社でしたよね。借入金が増えて、もう借りられないところに来ているんじゃないですかね」

「倒産しそうなのかしら」

「どうでしょう。それはわかりませんが、まとまった現金が必要なのでしょう。それで売れそうなソフトを売っているっていうことなんじゃないですかね」

「そんなソフトを買っても大丈夫かしら」

「私は何とも言えません。でも買い取るという契約でしたら、買った後の権利はこちらのものになるのですから、仮に相手が倒産しても、ソフトの販売には影響しません」

「そう。それを聞いて安心したわ。それで、この契約はソフトの権利を買い取るという契約になる訳よね」

「そうです」

「その契約書、すぐ作ってくださる」

「わかりました。ひな形があるので、作成するのは簡単です。すぐ作らせます。契約関係は法務部という部署があるので、そこに作らせます」

「そう、じゃあ、お願いします」

「わかりました」

 

 高木が出ていった後、時計を見ると、午後三時を過ぎていた。午後の面会時間になっていた。昨日、手術をしたのだから、早く様子を見に行くにこしたことはなかった。

 滝川に病院に行くことを告げて、退社した。

 六階のHCUのナースステーションに行き、様子を聞いた。特に変わりはないということだった。

 マスクをし、入口で手指の消毒をして室内に入った。

 相変わらず、包帯だらけの富岡がベッドに横たわっているだけだった。

 椅子に座って目をつぶると眠ってしまいそうだった。

 明日、須藤に二百万円を渡すことになるが、二百万円という金額の多さが真理子には、実感できなくなってきていた。僅か、二百万円と思えるのだった。

 手帳を開いた。自動車事故保険会社への連絡のところに印がついていた。忙しさに忘れていたのだった。急いで病室を出ると、電話があるA棟に向かった。

 手帳に記入していた保険会社に電話して、担当者につないでもらった。

「お電話頂き、ありがとうございます。今回、担当させていただく、東と申します。よろしくお願いします」

「こちらこそ、よろしくお願いします」

「そこで、急なことで申し訳ありませんが、明後日の土曜日なんですが、ご都合はどうでしょうか」

「土曜日ですか。今のところ用事はありませんが」

「それでしたら、土曜日に事故現場まで、ご一緒頂けますでしょうか。もし、ご都合が悪ければ、別の日に致しますが」

「大丈夫です。土曜日ですね」

「お車で来られますか」

「ええ、そうします」

「それでは待ち合わせ場所なんですが……」と、東はとある場所を指定した。車で行きやすく、高速にも乗りやすい場所だった。

「わかりました。そこに伺います」

「お時間ですが、午前九時から十時ぐらいの間でどうでしょうか」

「それでしたら、午前九時ということにして頂けますか。わたしは赤いポルシェで行きますので、わかると思います」

「承知しました、それでは午前九時にお待ちしています」

 電話を終えると、再び、真理子は富岡の病室に戻った。手帳の土曜日の欄に、午前九時、自動車保険、東、そして待ち合わせ場所を書き込んだ。

 

 次の日、午前十時に須藤が現れた。須藤に一人で会うのではなかったので、応接室に案内して、高木と法務部の林田が同席した。

 お茶が運ばれてきて、滝川が出て行くと、真理子が「早速ですが、御社の『外字作成・活用ソフト』を著作権も含めて、買い取らせて頂く契約をさせて頂きます」と言った。

「わかりました」

「これが契約書です。よくお読みになった上で、鉛筆で丸をしてある箇所にサインと印鑑を押してください」と真理子は言った。

 須藤は印紙の貼られた契約書に一通り目を通すと、言われたとおりにサインと印鑑を押した。契約書は二通あった。二通の契約書が同じものであることを示す割印を押すと、真理子は一通を須藤に渡し、もう一通を法務部の林田に渡した。そして、二百万円の現金の入った封筒を須藤に渡した。

「二百万円、確かにあるかお確かめください」

 真理子がそういうと、須藤は封筒の中身を確認した。

「確かに二百万円受け取りました」

 須藤がそう言うと、高木が「この領収書にサインと印鑑を押してください」と言った。

 印紙が貼られた二百万円の領収書に須藤がサインをし印鑑を押すと、それを高木が受け取った。

「これで契約成立ですね」と真理子が言うと、須藤は頷き、現金の入った封筒を手提げ鞄に入れると、「じゃあ、私はこれで失礼します」と言ったので、真理子は滝川を呼んで玄関まで見送りさせた。

 須藤が出ていくと高木は大きく溜息をついた。林田は「失礼します」と言って、応接室から出ていった。

「社長室に行きましょう」と真理子が言って、高木を誘った。

 社長室に入り、真理子が椅子に座ると、高木も椅子に座った。

「社長代理は……」と高木が言いかけたので、「もう真理子でいいわ」と言った。

「失礼しました。ではそう呼ばせて頂きます。真理子さんは、契約に立ち会われたことがおありなんですか」と訊いた。

「いいえ、今日が初めてよ」

「それにしては堂々としていましたよね」

「変だった」

「いえいえ、感心していたんですよ」

「ただの契約ですもの。儀式みたいなもの」

「私は何度、契約に立ち会っても緊張します」

「そういうもんなんですか」

「金額の多寡にかかわらず契約とはそういうものです、私にとっては」

「そういうものなのね。わたし、多分、契約の大事さがわかっていないんだと思うわ。だから、平気でいられるんだと思う」

「そうじゃないと、思いますよ。腹が据わっているからだと、私は思います」

「わたし、太ってきたのかしら」

「ご冗談を……」

「わかっているわよ。今日は、ありがとうございました」と真理子は頭を下げた。

「止してください。私はただ立ち会っていただけですから」

「高木専務に立ち会って頂けると、何故か安心できるの。ほんとよ」と真理子は言った。

 高木はまんざらでもないように「そうですか」と応えた。