十九
秋月と湯川とのやり取りは、一時間ほどで終わった。
今日は、これで帰ると滝川に言ってきたので、会社に戻る気にはなれなかった。時間が空いた。ナースステーションに行き、一目、富岡を見て帰れないかと話した。面会時間以外なのでと言われたが、一人の看護師が富岡の点滴のパックを取り替えるので、それに合わせて、入室を許された。
点滴のパックを交換されている間も富岡は、微動だにしなかった。
看護師が出ていくのと一緒に真理子も出ていくと、面会帳に自分の名を書き、入室時を午後三時、退室時を午後五時と記入した。
火曜日になった。午前十時少し前に、須藤は来社した。社長室に案内されてきた須藤は、ごく普通の中年のおじさんといった感じだった。白いワイシャツにグレーのジャケット、紺色のズボンという格好だった。
須藤は、てっきり富岡修と会うものだと思っていたので、真理子を見て途惑い、驚いているようだった。
「お座りください」と真理子が社長机の前にある椅子を勧めると、須藤はそこに座った。真理子は応接テーブルの前には行かず、社長椅子に座ったまま、須藤の話を聞くつもりだったのだ。
「富岡真理子と申します。今は社長代理をしています」
そう言うと、須藤は名刺を出して、「須藤孝弘といいます。有限会社須藤の社長をしています」と言った。
この時、真理子は名刺を作っておかなかったことを悔やんだ。
その時、滝川が入ってきて、お茶を持ってきた。彼女が出て行くのを待って、「で、ご用件は何でしょうか」と真理子は言った。
「これなんですが」と言って、須藤は鞄から、一枚のフロッピーディスクを取り出した。
ラベルには「外字作成・活用ソフト」と書かれていた。
「これを御社のワープロソフトに組み込まれたらどうかと思いまして」と須藤は言った。
「どのような機能があるのですか」
「外字というのは、JIS規格の文字コードに含まれない文字のことを言い、このソフトを使えばJIS規格の文字コードに含まれない漢字を作成したり、使用することができます」
「どんなメリットがありますか」
「メリットはかなりあると思いますよ。特に人名や地名などには効果を発揮すると思いますよ」
「わかりやすく説明してくださいますか」
「例えばですね、吉田の吉は士が口の上にありますが、士ではなく土を使った𠮷田も結構使われますよね。そのような場合、この外字作成・活用ソフトを使えば、𠮷の字を簡単に作り、使うことができます」
「なるほど、機能はわかりました。このソフトに関するマニュアルはありますか」
真理子がそう言うと、須藤は鞄から、プリンターで打ち出しホッチキスで留めたA4版の文書を、机の上に出した。
真理子はそれを手にすると、パラパラとめくった。少し読んでみたが、真理子の理解の範囲外のものだった。
真理子は考えるふうを装った。そして、しばらくして「このソフトとマニュアルを預からせて頂けますか」と言った。
「今、返事を頂けませんか」
「それはできかねます。担当者と検討してから、お返事を差し上げることにしますがそれでいいですか」
相手はすぐにでも返事が欲しそうだったが、ソフトを本当には理解していないように見える真理子を前にすると、いやとも言えなかった。
「それでは、いいお返事をお待ちしています」と言って立ち上がった。
滝川が持ってきたお茶には口をつけなかった。
「わかりました」と言って、真理子は立ち上がると、社長室を出るまで須藤を見送った。
真理子は、社長椅子に座ると内線で開発部の清宮を呼んだ。
先程、須藤が持ってきたフロッピーディスクとA4版のマニュアルを見せた。
そして、須藤がした話をかいつまんでした。
それを聞いていた清宮は、フロッピーディスクを取り上げると、「ちょっとパソコンをお借りしますね」と言って、デスクの上にあったパソコンの電源を入れ、フロッピーディスクの差し込み口にソフトを差し込んだ。しばらくするとソフトの初期画面が表示された。清宮はマウスを使って、あれこれ試してみた。
そのうち、画面上にいっぱいの漢字がずらりと並んだ。それをスクロールしていくと、かなりの数になった。
「なるほど、サンプル文字としてかなりの数の漢字を登録していますね」と言った。
「どういうこと」
「このソフトは基本的には、ユーザーが漢字を作成して使うものなのですが、漢字を作成するというのは、言うのは易しいですけれど、実際にやってみると、結構大変なんですよ。そのために、このソフトには予め、かなりの数の漢字が用意されているようです」
「使えそうなの」
「外字を作って使う機能はTS-Wordにもあります。だから、それだけならあまり期待できないんですが、かなり多くの漢字が登録されているので使い道はあるかも知れませんね。それにTS-Wordの外字機能は、TS-Word専用ですが、このソフトは汎用性がありそうなので、使えるかも知れません」
「汎用性って」
「汎用性っていうのはですね、いろいろなソフトで使えるという意味です。他のワープロソフトやワードプロセッサーの外字ファイルにこのソフトが対応していれば、それらのワープロソフトやワードプロセッサーでも使えることになります」
「そうなの。で、どうなの」
「すみません。持ち帰って確認してみます」
「すぐにわかることなの」
「それはそれほど時間がかかるものではありません」
「じゃあ、お願いします」と言った後で、真理子は「ところで、今日、失敗しちゃったんだけれど」と言い出した。
「どうされたんですか」
「名刺交換をしようとして、名刺をまだ作ってなかったことに気付いたの。どこか近くで名刺をスピード印刷してくれるところないかしら」
そう真理子が言うと、清宮はにっこりと笑って見せた。
「なに?」
「そんなことなら、我が社で簡単にできますよ」
「えっ」
「結構、性能のいいプリンターを持っているんですよ。社員の名刺なんか、全部、そのプリンターで作ったんですよ」
「そうなの」
「ええ。かなり特殊な紙でも、綺麗に印刷できます。名刺は小さいだけで、印刷し始めたら何百枚でも何千枚でも作れますよ」
「だったら、すぐに作ってくれないかしら」
「お安い御用です」と清宮は笑いながら言った。そして「ちょっと、待ってくださいね」と言って、電話の内線で西野に何やら告げて呼んだ。
やがて西野がノックして入ってきた。
「これですか」
そう言って、差し出したのは、名刺を印刷する紙の種類を集めて、ホルダーファイルに入れたものだった。
清宮は「その中から、お好みの用紙を選んでください。今、うちにある用紙はそこに全てありますから」と言った。
真理子は薄いピンクの多少凹凸のあるものを選んだ。
「これでいいわ」
「片面印刷ですか、両面印刷ですか」と西野が言うので、「片面でいいわ」と言った。
そう言いながら、メモ用紙に名刺に印刷する文字を書いて、清宮に渡した。
「で、スピード印刷なのよね」と真理子が言うと、西野が「三十分でお持ちします」と言って出て行った。
「こんなこともできるのね」と真理子は感心したように言った。
清宮が須藤が持ってきたA4版のマニュアルを見て「あれなら、うちだったらA5版に両面印刷して製本して持ってきますよ」と言った。
「そうなの」
「ええ。以前は、フロッピーの大量コピーも製本もうちでやっていたものです。A5版のマニュアルにボール紙を四角くくりぬいたところにフロッピーディスクを入れて、ビニールでパックして出荷したものです」
「そうなんですか。それに比べると隔世の感があるわね」
「ええ」
「今日来た須藤さんのところも、言ってみれば以前のうちのようなものだったのね」
そう真理子が言うと、清宮は「まぁ、最初は何かと大変でしたから」と言って、少し感慨にふけったようだった。
「とにかく、いろいろな分野のソフトに手を出しては、失敗の繰り返しでした。TS-Wordの最初のバージョンを出して、やっとソフト会社のような感じになったんです」
「そうだったのね」
「ええ、TS-Wordは我が社を救ったソフトです」
「じゃあ、今度のTS-Wordも成功させなくちゃね」
「そうですね。少しずつですが、シェアも伸ばしているし、今回は他ではない罫線を使った表計算もできる優れものですから、使ってもらえれば、その良さがわかると思います」
「そうだといいわね」
そう言っているうちに西野が戻ってきた。息せき切って来たのがわかった。
「ごめんなさいね。急がせてしまったわね」と真理子は謝った。
「いいんです。それより、出来具合はどうでしょうか」
西野に促されて、半透明のピンクのアクリルケースに入った名刺を一枚取り出して見た。
「すごい。名刺屋が作ったようじゃないの」
「そうでしょう」と西野は言った。
「でも作るのは、簡単なんですよ。パソコンに必要な情報を入力して、プリンターから印刷するだけですから」
「これ、『名刺屋さんもビックリ!』という名のソフトを使って作ったんですよ」と横から、清宮が口を挟んだ。
「そうなんだよね」と西野が言うと、二人は笑い出した。
「どうしたの」と真理子が訊くと、「『名刺屋さんもビックリ!』は、ビックリするほど売れなかったんですよ」と西野が答えた。これには、真理子も笑った。
「そうなの。でも、これだけ上手くできるのに、どうして」と訊いた。
「同じことがワープロソフトでもできるんですよ、用紙サイズや印刷位置の指定が面倒なだけで」と清宮が答えた。
「おまけにテンプレート、これはサンプルにする文書のことなんですが、それに名刺を付け加えたものだから、TS-Wordがあれば、これと同じものが作れるんです。だから、『名刺屋さんもビックリ!』はすぐに売れなくなったんです」
「そうだったの。あなたたちの仕事はそうしたトライアル&エラーの繰り返しで、上達していくのね」
「良く言えば、そうですね。ただ、上手くいく確率の方が低いのが難点ですが」と西野が言った。
「でも、そのうち、ホームランを打つわよ」
「そうだといいんですが」と清宮が返した。
「打ってくれないと、わたしが困るわ」
真理子がそう言うと、三人で笑った。
「もうこんな時間だ」
そう言ったのは、清宮だった。もう時計は十二時を回っていたのだった。
「ごめんなさいね、気付かなくて」と真理子が謝った。
「では、これは持ち帰って検討します」と清宮が言うと、「よろしくお願いします」と真理子が答えた。
二人が出て行くと、社長室の中は、急に静かになった。