九
病院に現れた北村の奥さんはまだオムツの取れない赤ん坊を抱いていた。おんぶひもに支えられて指をしゃぶりながら眠る男の赤ちゃんを見ていて、祐一の赤ん坊時代を思い出していた。八年前の私は、大手の子会社のソフトウェアの会社で働いていた。同世代のサラリーマンよりは少し給料は良かったが、それは即戦力として働ける間の事に過ぎないのは分かっていた。その頃のシステムエンジニアは三十代定年説が囁かれるほど仕事としても苛酷だった。休みなど全く取れないし、残業に次ぐ残業で、納期が迫ってくれば徹夜が当たり前の世界だった。だから、その会社に長くいるつもりはなかった。だが、ずるずると働いている感じだった。その頃にも独立する野心はもちろん持っていた。それが北村と会った事で現実味をもった。きっかけがなかった私に彼が現れた事でそれができた。
葬儀の後で分かった事だが、北村は会社の重要なプログラムを少しずつ盗み出し、誰かに渡していた。その誰かというのが分かったのはずっと後だったが、それが富岡だった。
あの日もそうした時の後だったのだろう。北村は、機会をみて退社し、富岡の会社に入社するつもりだったと考える他はなかった。北村は(株)TKシステムズの専務取締役だった。私が社長だったが、それは形ばかりのものだった。(株)TKシステムズは私と北村の会社だった。それなのに何故……。考えても分からない、どうして北村がそんな事をしたのか。
一緒に作業をしていた時の事が頻りに頭を過る。北村の笑顔だけが思い出された。
どうしてなんだ、北村!
あの日、一瞬、私を見た北村の顔が忘れられない。最初は驚愕だったと思う。だが、すぐにそれは恐怖に駆られた者のそれに変わった。そして闇雲に走り出した。それは、紛れもなく事故だったが、私には北村が自殺したように思われた。
それにしても北村が私を裏切るとは、想像の外だった。いや、私を裏切ったと言うより自分たちの夢を裏切ったような気がした。北村とは深い絆で結ばれていたと思っていたのは、私だけだったのか。やるせなさと絶望感が同時に襲ってきた。あの事故に遭った後、道路に横たわっていた北村は私に何を言おうとしていたのだろうか。何度もその唇の動きを思い起こそうとするのだが、今では永遠に分からない。
いかにして、あの北村を富岡は籠絡したのだろう。まるで分からなかった。分からなかっただけに怒りが湧いてきた。北村が生きていれば、それは彼にも向かっただろう。しかし、この世にいない者に怒りはぶつけられない。私の心の奥に富岡に対する、根深い憎しみが生まれていた。
北村のデスクを整理しなければと思いながら、私にはできずにいた。全てが北村への思い出につながるからだった。それで、整理は岡崎に任せた。
北村の四十九日の法要が終わった二、三日後だった。岡崎から報告があった。北村が開発中のプログラムを度々持ち出していたというのだ。
「そんな馬鹿な」
私は即座に否定した。開発中のプログラムは社外に持ち出す事は禁止していたからだった。そのためにメインサーバーから持ち出せないようにプロテクトを掛けていた。フロッピーディスクなど他のメディアにはコピーできないようにしてあったのだ。だが、北村なら、それでもコピーして持ち出す事は可能だったろう。
「メインサーバーのログを調べたんですよ。そこにコピーした履歴が、一応消去してありましたが、復元したら残っていたんです」
岡崎はハッキングにかけては天才的だった。どこのソフト会社でもすぐに就職できただろうに、何故うちに来たのかよく分からなかった。
岡崎の報告はそれだけじゃなかった。トミーソフト株式会社から近々に発売されるソフトがうちが開発していたものと非常に似ているという事だった。そのソフトのβ版が配布されていて、それを調べてみると、機能が似ているというレベルではなく、プログラムそのものが似ているというのだった。というより、そっくりだとも言った。
「普通、ここまで似ませんよ」
そしてトミーソフト株式会社の新製品の中のプログラムに密かに北村が潜ませといたサインを見つけた時、疑惑が確信に変わった。それから岡崎は決定的な証拠を見つけ出した。北村の事だから入念に削除したつもりだったのだろうが、我が社で発売しようとしていたソフトをトミーソフト株式会社用に改良したプログラムの一部を残してしまっていたのだ。
「これで決まりですね」
岡崎に言われなくても分かっていた。
自分たちが作ったソフトのプログラムを、北村を使って富岡が盗み出させたと知って、私の怒りは頂点に達した。そしてそれが北村を死なせた事につながっていると思うと、ただ怒るだけでは済まなくなっていた。
それはいつしか富岡を殺す事を夢想する事につながっていった。
富岡がある雑誌のインタビューに答えている記事を見た。それが彼の会社の社長室なのだろう。深々と椅子に座ってインタービューに答えている彼は、トミーソフト株式会社がいかに革新的なソフトを生み出したのかを得々と語っていた。
それは私たちが創り出したものだろうが!
雑誌を投げ捨てた。頭の中を富岡の得意そうな顔がぐるぐると回った。