小説「真理の微笑 夏美編」

十六

 十二月下旬になると、夏美は学校に行き、担任と相談をした結果、とにかく二月早々にある有名私立中学校と国立中学校を受験する事に決めた。

 国立某中学校は、来月一月の中旬になってすぐの二日間のみ窓口受付を行い、有名私立中学校の方は、郵送であれば一月下旬早々の一日のみ、郵便局から簡易書留・配達日指定で送付する事が募集要項に書かれていた。

 夏美は願書をもらいに、すぐに両方の学校に行った。

 そして両校への出願書類の提出が終わり、両校の受験も終えた。祐一は国立中学校は落ちたが、有名私立中学校には受かった。夏美はその中学校の入学手続きをすぐに行った。

 

 そして、いよいよ第三回公判がやってきた。傍聴人は前よりも遥かに増えていた。

 前の公判が終わった後、週刊誌やワイドショーの報道は過熱する一方だった。

 特に真理子に高瀬との間の子がいる事が話題を呼んだ。自分の夫を殺した犯人との間に子どもができたのである。話題にならない方がおかしかった。

 ワイドショーは毎回、各界の著名人をコメンテーターに呼んで、その感想を訊いた。

「自分の夫を殺害した犯人でしょう。その子どもを産むなんて、知らなかったからできたんでしょうけれど、残酷よね。奥さんにとっても、お子さんにとっても」

「とにかくこの先が大変ですよね。奥さんにしてみれば、主人だと思って産んだわけでしょうから」

「わたしには想像もできません。そのお子さんには、一生ついて回るでしょ、この事が」

「奥さんが気の毒でなりません。いくら被告人が記憶喪失だったからって、こんな事があってもいいものなんでしょうか」

「あ~あ、考えるだけでも、ゾッとしますね。この先、どう暮らしていくのかと思うと」

「でも、奥さんは犯人と知っていて暮らしていたわけではないんだから、子どもができても不思議ではありませんよね。これは、もう皮肉としか言いようがありませんね」

 コメンテーターの意見は、真理子に同情するもので一致していた。

 

 第三回公判は弁護側の主張から始まった。

 弁護側が今日証明しようとする事は、何故、高瀬隆一が富岡修を殺さなければならないほどに追い詰められていったのか、にあると主張した。そのための証人を三人呼んであると言った。

 まず最初に呼ばれたのは、元(株)TKシステムズ社員の岡崎だった。

 人定質問の後、弁護士から「今回の被告人の起こした事件についてどう思いますか」と訊かれた。

「とても信じられない気持ちです。今回のような事件を起こすような人じゃあありません。最初に事件の事を知った時に、そんな馬鹿な事があってたまるかと思いました」

「被告人は普段はどのような方ですか」

「とても温厚で誠実な人です。わたしたちのような従業員にも、まるで家族のように接してくれます」

「という事はよほどの事がない限り、今回のような事件を引き起こすような人ではないんですね」

「そうです」

「では、話を変えます。トミーワープロについてどう思いますか」

 岡崎は周りを見回した後、「トミーワープロは、うち、あのうわたしが元働いていた会社の(株)TKシステムズの事ですが、そこで開発していたTK-Wordそのものだなと思いました」と答えた。

「それはどうしてそう思ったのですか」

「トミーワープロを解析したからです」

「それで何がわかりましたか」

「トミーワープロは、TK-Wordを改良したものだという事がわかりました。改良というのは、言葉の綾で、改良ではなく、TK-Wordをトミーワープロに見えるように改変したものだという事がわかりました」

「それで、どう思いましたか」

「それは怒りましたよ。何しろ二年もかけて作ってきたものを、横からかっさらわれていったのですから。二年もかかったんですよ、このソフトを作るのに。それまでにどれほどの努力をしたと思いますか。社運をかけて開発していたんですよ。それが奪われたわけですから」

「高瀬隆一社長は、どう思ったと思いますか」

「怒っていました。わたしが解析結果を報告した時、机の上を大きく一度、叩いたぐらいですから」

「どうも、ありがとうございました。以上です」

「裁判長、検察からも質問させてもらってもいいですか」

「どうぞ」

「今、トミーワープロは、TK-Wordを改良したものだという趣旨の事を発言されましたが、同じ機能を持ったワープロソフトですよね。そうであるなら、たまたま、似てしまうという事もあるのではありませんか」

「失礼ですが、それはソフトというものを知らない素人の考えです。使ってみて同じ機能に見えるようでも、プログラムは別なんです。こう言ってもわからないかも知れませんから、たとえで言いましょう。四という数字があるとして、この数字になるように足し算の計算式を作ってくださいという問題があったとします。その時、三+一でも四になるし、二+二でも四になります。四という数字は同じでも、三+一と二+二では違うでしょう。それがプログラムなんです。機能が複雑になれば、この四にする方法も複雑になり、たとえ、同じ機能に見えたとしてもプログラムは別なんです。トミーワープロとTK-Wordを比べるとそれが驚くほど同じだったのです。ですから、わたしたちはTK-Wordのプログラムが誰かに盗まれてトミーワープロとして売り出されたものだと思ったのです」

「わかりました。以上です」

 検察側の質問は、弁護側が主張したいことを強化しただけに終わった。

 

 次は中島が呼ばれた。

 人定質問の後、岡崎にした質問と同じく「今回の被告人の起こした事件についてどう思いますか」という質問が中島にもされた。

 その答も岡崎とほぼ一緒だった。高瀬隆一という人は非常に温厚で、人情味のある人物であり、とても人を殺すような人ではないという答だった。

「トミーワープロについてどう思います」と訊くと、「わたしは、見た目が違うだけで、トミーワープロはTK-Wordそのものだと思いました」と答えた。

「どうしてそう思ったのですか」

「先程、発言した岡崎さんと一緒にトミーワープロを解析したからです」

「さっき岡崎さんの時に質問すべきだったのですが、トミーワープロが発売されたのは、事件が起こった後ですよね。それなのに、トミーワープロが発売される前に、何故、トミーワープロはTK-Wordそのものだと思ったのですか」

「どのソフトでもそうですが、本製品を発売する前にβ版を作成します。そして、一定のユーザーに配布してその機能を評価してもらうんです。わたしたちはそのβ版を入手して、TK-Wordと比べたんです」

「そのβ版とトミーワープロとは、どの程度似ているものなんですか」

「ほとんど同じです。本製品を売り出す前に試用してもらうわけですから、プログラムは一緒です」

「では、そのトミーワープロのβ版とTK-Wordと比べたんですね」

「そうです」

「しつこいようですが、それはトミーワープロとTK-Wordと比べたと考えてもいいんですよね」

「そうです。これは個人的な興味で行ったことですが、トミーワープロが発売された後に、それを購入してTK-Wordと比べましたが、β版と結果は同じでした」

「それでは訊きますが、β版を解析してどう思われましたか」

「怒りましたよ。TK-Wordが盗まれたと思いました」

「TK-Wordが盗まれたとはどういう意味ですか」

「言葉通りです。TK-Wordのプログラムを誰かが(株)TKシステムズから持ち出して、トミーソフト株式会社に無断で売ったのに違いありません。その事を言ったのです」

「わかりました。以上です」

「検察側は」と裁判長が訊くと、「ありません」と答えた。

 

 三番目の証人は、あけみだった。

 証人席に立つと弁護士から「お名前は」と訊かれたので、「あけみで~す」と答えたら、傍聴席から、微かに笑いの声が上がった。

源氏名はいいですから、本名を答えてください」

「浅井さやかです」

 人定質問が終わった後で、「あなたはクラブ楓のホステスをしていますね」と弁護士が訊いた。

「はい」

「そこで富岡修さんと度々会っていますね」

「はい」

「その富岡修さんから、何か変わったお願い事をされた事はありませんか」

「変わったお願い事ね、例えば、セーラー服を着てくれとか」

 これには傍聴席も笑った。

 弁護士も慌てて「そういう意味じゃなくて、何か特別な用件を頼まれなかったかと訊いているんです」と言い直した。

「あっ、わかった。北さんの事ね」

「そうです。北村敬一さんの事です。北村敬一さんは、当時(株)TKシステムズの専務でした」

「それなら、頼まれたわよ」

「どんな事ですか」

「あそこに座っている修さんに北さんを誘惑してくれって頼まれたの」

 あけみは振り向いて高瀬を指さした。

「あそこに座っているのは、修さんではありません」

「え~。だって、修さんでしょ」

 あけみはもう一度被告人席を見て「修ちゃんよね」と言った。傍聴席が再び笑った。

 裁判長が「証人は質問された事にだけ答えてください」と言った。

「は~い」

「その富岡修さんから北村敬一さんを誘惑してくれと頼まれたのは、いつ頃ですか」

「いつだったかなぁ。多分、二年ぐらい前の夏頃だったと思うわ」

「あたし、北さんはタイプじゃないから断ったんだけれど、修さんのたっての頼みだというんで引き受けたの。あたし、お金にも弱いし」

「それでどうしたんですか」

「北さんに酒を飲ませて酔わせたわ。北さんは、お酒には強くなかったわね。ある程度飲んだら、眠ってしまうの。店に置いておく事もできないから、ホテルに連れていって、朝まで寝かせた事もあったわ。その時は、すっかり、あたしと関係を持ったと思い込んだに違いないわね。それから、北さんは、すっかりあたしにのめり込んでいったわね。何度もクラブに来たもの」

「そう何度もクラブに来られるほど、北村敬一さんは給料をもらっているように見えましたか」

「まさか。クラブの料金は高いのよ。北さんの給料だけで、ああ何度も来られるものじゃないわ」

「じゃあ、どうしたんですか」

「修さんが北さんにお金を渡していたわ。最初は北さんは断っていたけれど、その時、修さんは北さんの胸ポケットに突っ込むように無理にお金を渡していたわね。そういう事が何度かあって、そのうちに、北さんも黙ってお金を受け取るようになったというわけ」

「お金を受け取った北村さんはどうしました」

「北さんをホテルに連れていって朝まで寝かせた時に、あたしと寝たと思っているから、その後、何度も誘ってきたわ。でも、あたしはその都度、はぐらかしていたの。だって、北さんと寝るのは嫌だったんだもの」

 法廷内はこの時も笑いが起こった。

「それで……」

「年が明けてすぐの頃だったと思うんだけれど、北さんから真剣にしらふの時に抱きたいってお願いされたのよ。これにはあたしも困ったのよ。何とか断る口実を見つけ出そうと思って、こう言ったの。今のアパートからマンションに引っ越したいから、百万円出して欲しいって。そうしてくれたら、寝てあげるって。百万円なんて、北さんに用意できないのはわかっていたから、断るためにそう言ったの。それなのに、お金の事はなんとかするから、って聞かないのよ。あたし、困っちゃって」

「それでどうしたんですか」

「修ちゃんに相談したの。そしたら修ちゃんは嬉しそうに笑って、彼のしたいようにしてやれよ、と言ったの。北さんには修さんがお金を渡すからって言って。それで北さんと寝たわ。修さんとの約束通りに。でも、北さんから百万円を受け取る前に、北さんが交通事故で死んだ時は、びっくりしたわ」

「じゃあ、百万円は受け取れなかったんですか」

「いいえ、ちゃんともらったわ、そこにいる修さんに」

 あけみは証人台から被告人席を見て言った。

「つまり、北村敬一さんは富岡修さんに買収されていたという事になるんじゃないですか」

「そうなんじゃないの」

「それは北村敬一さんがTK-Wordのプログラムを、富岡修さんに渡していたという事なんじゃないですか」

「そんなこと、あたし知らないわよ。でも、あの修さんが何もなくてお金を渡すなんて事はないわね」

「わかりました。ありがとうございました。以上です」

「裁判長」

 検事側から声が上がった。

「証人に質問があるのですが、いいですか」

「どうぞ」

「今、証人は百万円は被告人にもらったと言いましたよね。それは本当ですか」

「ええ、あたし、嘘なんか言わないわ」

「でも、被告人は記憶を失っていたんですよね。あなたとの約束も忘れていたんじゃないんですか。というよりも、被告人は富岡修さんじゃないわけだから、あなたと約束していたという事もなかったわけじゃないんですか」

「そんな事あたし知らないわよ。とにかく、修さんは最初は忘れていたわよ。あたしが誰かさえもわからなかったぐらいだもの」

「それはそうでしょうね。会った事ないはずだから。それならどうして……」

「そこにいる修さんに事情を話したのよ。そしたらわかってくれて百万円を渡してくれたわ」

「もう一度言いますが、被告人席にいるのは、富岡修さんではなく、高瀬隆一です。その彼が百万円をあなたに渡すのは、おかしな話じゃないですか」

「おかしな話じゃないわ。あそこにいるのは修さんよ、だって、あたしにはわかるんだもの」

「どういう事ですか」

「ここでそれを言えと言うの。男と女の事だからわかるでしょ」

 この時、傍聴席がざわめいた。検察側はまたしても失態を犯したのだった。

「いえ、結構です。以上です」

「裁判長」

 今度は弁護側が声を上げた。

「証人に質問してもいいですか」

「どうぞ」

「証人は、被告人に何回か会っているんですか」

「ええ、毎週のように会っていたわ」

「それはどこでですか」

「病院よ。入院している時」

「その間、被告人を富岡修さんだと思っていたわけですね。先程、言われた理由で」

「そうに決まっているじゃない」

「ありがとうございました。以上です」

 この弁護側の質問は、高瀬隆一にとってより有利な証言を引き出した事になる。高瀬隆一が記憶喪失になっている間、富岡修だと思い込んでいた傍証になるからだった。

 

 次回の法廷は五月に開くことになった。