小説「真理の微笑」

二十二

 真理子が来るのが待ち遠しかった。

 伝えたい事や、やって欲しい事はいくらでもあった。

 今、来たら、まずカード型データベースの事を訊き始めるだろう。

 だが、昨日の話は会社移転の事だった。今日、真理子はその事を会社の経理と営業に相談して、その事でいっぱいいっぱいのはずだった。

 夕食後、午後八時近くになって真理子はやってきた。

 この前連れてきた営業の田中ともう二人いた。一人はバグの件の時に連れてきた者だとは分かったが、名前は覚えていなかった。

「ああ。社長、こんなになって」

 年のいった見知らぬ男が近づいてきた。真理子が素早く「経理の高木さんよ」と言った。

 私はきょとんとしていた。そう言われても、初めて見る顔だった。

「社長、わかりますか、私が……」

 私は「いいや」と言った。高木は私の声に驚いたようだった。初めて私の声を聞く者は、皆、驚いた。

 高木が真理子の方を振り返ると、「記憶喪失なの。それに喉も痛めているの」と答えた。

「そうですか。無理もありませんね。大変な事故でしたからね。私、すぐに病院に駆けつけたんですよ、でも、社長はその時は意識がなかった」

「そうでしたわね」

「でも、意識が戻られて良かった」

「…………」

「聞きましたよ、会社移転の話」

 高木は急き込むように言った。

「いいじゃないですか。今の所だと手狭だし、不便だし。前から社長、おっしゃってましたよね、ヒット商品出したら、移ろうって。ちょうどいい機会だと思いますよ」

 高木は田中を引っ張ってくるようにして、「田中も喜んじゃって……」と言った。

「痛いですよ、高木さん」

 田中は私に向き直って「でも、いい決断だと思いますよ。トミーワープロが売れている今がチャンスだと思いますね」と言った。

「そうか。他の人たちも同意見だと考えていいんだね」

「ええ」

 高木と田中が同時に言った。

「分かった。だったら、物件探しから進めてくれ。早い方がいい。今年中に移転するぞ」

 後、三ヶ月しかない事は分かっていた。

「急ですけれど、できない事もないでしょう」

「いくつか物件が見つかったら、知らせてくれ」

「わかりました」

 高木と田中が下がった。

「そこの……」

 病室の隅にいた社員に声をかけた。

 真理子が「西野さんよ」と言った。

「西野君か。確か、バグの件だったよね」

「はい。修正プログラムは作りました。該当する部分を含めた一部を削除して、そこを書き換えるプログラムになります」

デバッグは大丈夫なんだね」

「ええ、大丈夫です。何度も確認しましたから。今、修正プログラムを入れたフロッピーディスクを制作中です。今週中にはできます」

「修正プログラムの方は、雑誌の付録に入れてもらえるように手配しました。フロッピーディスクを付けていない雑誌には広告で修正プログラムの入手方法を載せました」

 営業の田中がそう言った。

「そうか」

「では……」と言って、帰ろうとしていた三人に「ちょっと待ってくれ」と言った。

「今、新製品の開発はどうなっている」と尋ねた。

 三人は顔を見合わせた。

「新製品ですか」

 経理の高木が訊いた。

「そうだ」

「グラフィックソフトと文書変換ソフトの方は順調に進んでいますよ」

「それじゃない」

「もしかして、カード型データベースの事ですか」

「そうだ」

「それは社長案件で、本来ならトミーワープロが売り出されて、その様子をみて半年後ぐらいに発売する予定になっていましたが、事故に遭われたので全く進んでいません」

 西野が答えた。

「β版のようなものはあるのか」

 西野が「ありません」と答えた。

 私はほっとした。しかし、北村がメインパソコンからカード型データベースのプログラムも持ち出していた事は分かっていた。富岡のパソコンにそのデータが入っているのだろう。カード型データベースの事に詳しい者がいれば、製品化する事は難しくないはずだった。北村が生きていれば、トミーソフト株式会社から売り出していたかも知れない。

「分かった。今、私はこんな状態なので、当面、カード型データベースの事は凍結にする。いいな」

「わかりました」

「今は、会社の移転とトミーワープロの事に集中しよう。それからグラフィックソフトと文書変換ソフトはそのまま続けてくれ」

「はい」

 

 三人が出て行くと、どっと疲れが襲ってきた。

 カード型データベースについての心配はないようだった。トミーワープロのバグも大したものではないから、修正プログラムも簡単に作れたのだろう。後は配布だけだ。

 一番、面倒なのは会社移転だが、場所さえ決まれば、どうにでもなる。

 真理子が「遅くなってごめんなさいね」と言いつつ、キスをしてきた。

 富岡はどんな風に真理子とキスをしていたのだろうか、という事がやはり頭を過ったが、真理子の唇の誘惑には勝てなかった。