小説「僕が、剣道ですか? 6」

 僕は、躰をはたいて、塵を落とすと、きくを呼んだ。このままで寝室には行けそうになかったからだ。

 きくが来ると「何ですか」と訊くので、「洗ったトランクスと折たたみナイフ、それにバスタオルと浴衣に手ぬぐいと下駄を持ってきてくれないか」と言った。

「わかりました」と言って、きくは寝室に向かった。

 僕の持っている物がどこにあるのかは、もうきくは知っていたのだ。

 必要なものを持ってくると、きくは僕に渡してくれた。

「ありがとう」と言って、僕は土間で安全靴を脱ぎ、下駄に履き替えた。そして、湯屋の前で風車を待った。少しして、風車がやってきた。

 二人で脱衣所に入った。

 風車は僕がジーパンを脱ぐのを珍しそうに見ていた。

「それは便利なものですね」と言った。何て言えばいいのか分からなかったのだろう。

「ええ、動きやすく、その上、丈夫なんですよ」と僕は言った。

「そうですか」と風車は言ったが、いぶかしそうだった。それはそうだろう。そうそう見たこともない服をどう評価していいのか、風車には分からなかったのだ。

 僕が頭と躰を洗い、五右衛門風呂に浸かると、「今日は疲れましたね」と風車に言った。

「確かにそうですが、あの程度のこと、大したことではありません」と風車は言った。

「明日は中庭ですね。中庭は広いですから、時間がかかりそうですね」と僕が言うと、「なぁに、一日で終わらせましょう」と風車は言った。

「そうできるといいんですけれどね」

 僕は躰が温まると風呂から出て、風車と交代した。折たたみナイフを取り出して、髭を剃った。髭を剃る度に思うのだが、どこかに鏡を付けられるといいんだがな、と。

 それと、きくに姿見を買ってやらなければ、とも思った。

 今の家には、鏡がどこにもなかったのだ。

 裏庭の草刈りも終わったら、野菜の苗や種でも買いに行くついでに、鏡も買おうと思った。

 

 風車を待って湯屋を出ると、風車が空を見上げて、「明日も天気ですな」と言った。

「そのようですね」

 僕らは母屋に向かった。

 

 夕餉には、煮売屋で買ってきた小魚の佃煮と里芋とこぼうの煮物が出された。

 小魚の佃煮と里芋とごぼうの煮物は美味しかったが、僕は梅干しや漬物だけでは野菜が足りないな、と思った。

 おひつは空になった。

 その時、風車が「あっ」と言った。

「何ですか」ときくが訊くと、「表札と墨と硯と筆を買ってくるのを忘れました」と風車が言った。

「この次にすればいいじゃないですか。釘と金槌もいりますよ」と僕が言った。

「早く、草刈りは終わらせましょうな」と風車が言うので、「そうですね」と僕は言った。

 

 風車が離れに引き上げて行き、僕らは寝室に入った。

 きくが「明日、昼餉の後、出かけてもよろしいですか」と言った。

「いいけれど、どうして」と僕が訊いた。

「煮売屋と八百屋に行ってみたくなりました。旬の食べ物を買ってきたいし、八百屋では美味しい菜の食べ方を教えてもらうつもりです」と答えた。

「それならキュウリと茄子を買ってきてもらおうかな。それととうもろこし」

「とうもろこしですか」

「ああ」

とうきびのことでしょうか」

「そう、それ。茹でると美味しいんだよ」

「そうですか」

「うん」と僕は言ったが、自信がなくなってきた。江戸時代のとうもろこしは美味くはなかったのかも知れなかった。

「それと調味料も買い揃えておくといいな」

「調味料って何ですか」

「塩や砂糖、醤油などのことだよ」

「塩や醤油はともかく、砂糖は高いですよ」

「高くても構わないよ。あると便利だよ。それから、鰹節とか昆布などの出汁を取る物も必要だな」

「出汁ですか」

「乾物屋に行けば売っている。そして、出汁の取り方も教えてくれるだろう」と僕が言うと、「きくはそんなにいっぺんには覚えきれません」と言った。

「いっぺんに覚える必要はないよ。少しずつ覚えていけばいい。今のところ、思いついたものを言ったまでで、すべて一度に揃える必要はない。ゆっくりやって行こう」と僕は言った。

 ききょうに白湯を飲ませてから、眠った。

 

 きくがぐっすり眠った頃に、僕は起き出し、奥座敷に行った。まだ、冷気が漂ってくる前だった。

「あなた様の方から、いらしてくださったんですね。嬉しい」と女が言った。

「どうせ、今日も呼びに来るつもりだったんだろう。私はせっかちでね。待つのが苦手なんだよ」と僕は言った。

「照れ屋なんですね」と女は言った。

「そんなことはないさ」

「言わずとも心の中は見えますよ」と女は言った。

「本当か」と僕が驚くと、女は笑った。

「嘘に決まってるじゃありませんか」

 少しホッとした。考えをすべて見通されたのでは、敵わないと思ったからだ。

「前庭にある柿の木のことなんだが、あれはこの家に引っ越してきた時に植えた物なのか」と訊いた。

「はい。そうです。桃栗三年柿八年って言うでしょう。どうせなら、長い方を植えようって、前の旦那様がおっしゃって植えました」

「もう、立派な木に成長しているね」

「ええ、このところ、晩秋になれば幾つもの実をつけるんですよ」

「渋柿じゃないよね」

「渋柿ではありません。そのままで美味しく食べられます。食べきれない分は、干し柿にすると長持ちしますよ」

「そうか。じゃあ、実が大きくなる晩秋が楽しみだな」

「あの柿の実を食べてくださるんですね」

「そうさ」

「嬉しい。この辺りの人は実がなっても、幽霊屋敷の柿は食えない、と言って敬遠するんです。せっかく育った柿ですもの、誰かに食べてもらいたいと思っていました」

「そういうものなのか」

「そういうものです」と女が言った後に、少しもじもじして「昨日のように手を触ってもよろしいですか」と訊いた。

「こんな手でよければどうぞ」と僕は言った。すると、女はそっと手を伸ばして、僕の指に触れた。そして、すぐに離した。

「どうした」

「いえ」と女は言うと、また指に触れてきた。そして、またすぐに離した。

「どうしたのだ」と僕が訊くと、女は「まるで雷が躰を通り抜けていくような感じがしました」と言った。

「二度ともか」

「はい」

「それでは手が握れないではないか」と僕は女の手を握った。

 女はしばらく痺れたようになり、やがてぼうっとした顔をした。

 僕は手を離した。女は肩で息をしていた。

「大丈夫か」

「大丈夫です。でも、凄いです。躰中が痺れました」と女は言った。

「あなたは普通のお人ではありませんね」と続けた。

「何を言っているんだ。見かけ通りの男さ」と僕は言った。

「それに……」と言いかけて女は言葉を止めた。

「それに」と僕は続きを促した。

「あなたからの雷のようなものは、わたしの氷の心を解かしました」と女は言った。

 僕はただ聞いているしかなかった。

「あなたから流れてくる雷は温かいです。それなのに、あなたは何人も、いや、数え切れないほどの人を殺めていますね」

「それが分かるのか」

「はい」

「どうしてだ」

「あなたには本体の霊と違う霊が沢山取り憑いているからです」

「それらの霊は、私に悪さをしようとしているのか」

「いいえ、あなたの霊力が強いので、何もできずにいます。そして、あなたの中に取り込まれていっています」

「そんなことが分かるのか」

「はい」

 

 その時、きくが僕を呼ぶ声がした。

 僕が立ち上がると、女は「待ってください」と言った。

「なんだ」

「もう一度、手を握らせてください」と女は言った。

 僕は女の手を握った。そして、離すと、女は消えた。

 

 寝室に戻ると、「また厠ですか」と言った。

「そうだ」と言って、僕は布団を被った。