小説「僕が、剣道ですか? 4」

   僕が、剣道ですか? 4

                                       麻土翔

 

 僕は校庭に倒れた。きくとききょうはいなかった。

 それを見た母が携帯で一一九番をした。

 

 意識を取り戻した時、僕ときくとききょうは、どこかの畑に倒れていた。

 僕もきくもききょうもびしょ濡れだった。

 僕は立ち上がると、きくを抱き上げた。きくも意識を取り戻した。ききょうの頬を叩くと泣き出した。ききょうも無事だった。

 まず、濡れているききょうを着替えさせるのが先決だった。ききょうの服を脱がせると、小さなナップサックに入っていたタオルでききょうを拭いた。そして、ききょうの服を取り出して着せた。

 抱っこ紐はそれほど濡れていなかったが、ききょうを拭いたタオルで拭った。

 抱っこ紐にききょうを寝かせると、きくの着物を脱がせて躰を拭き、バスタオルで躰を包んだ。きくはショーツも小さなナップサックに入れていた。

「どうしてこれを持ってきたんだ」と僕が訊くと、「穿き慣れたんです」と答えた。

 ショーツをきくに渡して穿くように言った。

 バスタオルだけでは、どうしようもないので、僕はリバーシブルのオーバーコートを脱いで、水を絞って、きくにかけた。

 僕は、周りを見回して、今は晩春か初夏だと判断した。真冬でなくて良かったと思った。

 僕は服を脱ぐと、タオルで躰を拭き、大きなナップサックに入れておいた着物を着た。草履を持ってくるのは忘れた。仕方がないので濡れた安全靴のままでいることにした。立てば、靴はほとんど分からなかった。濡れた着物や服は、ビニール袋に入れて、大きなナップサックに入れた。大きなナップサックはいっぱいになりすぎてジッパーが閉まらなくなったのでそのままにした。

 きくには濡れた足袋で我慢してもらうしかなかった。

 ききょうが泣き出したので、きくはききょうに乳を飲ませた。

 僕は辺りを見て、人家を探した。遠くに一軒見付けた。

 きくがききょうに乳を与え終えると、「歩けるか」と訊いた。きくは頷いた。

 きくには僕のオーバーコートは長かったようだが、きくの着物の帯で縛ったら、格好がついた。きくは、ききょうをおんぶも出来る抱っこ紐でおんぶしたので、きくの背負っていたナップサックも僕が持った。

 そして、遠くに見える人家まで歩いて行った。

 

 そこは農家だった。

 玄関から中に入ると、すぐ脇に牛小屋があり、広い土間には板の上がり口がL字型に設えてあった。

「誰かいませんか」と叫ぶと、奥から中年と少し若い男性が顔を出した。

「誰けぇ」と中年の男が言うので、「鏡京介と言います。こちらにいるのはきくとききょうです」と言った。

「何か用けぇ」と中年の男が言った。

「今は何年ですか」

「正徳五年だ」

 正徳五年、とすると一七一五年だ。ここに来た時は将軍が家宣と言うので、一七一〇年だと思っていたから、それから五年後ぐらいになる。

「もう五年も経つのか」と僕は呟いた。

「今は何月何日ですか」

「四月十六日だ」と中年の男が答えた。

「今何時ですか」と訊くと、若い方が「八つ半頃だろう」と答えた。

「泊まれる所まで、どれくらいあるのでしょうか」と訊くと、「二里ほど先に宿場がある」と若い方が答えた。

 今、八つ半頃だとすれば、午後四時頃だ。二里ほどなら、夜までに歩いて行けない距離ではなかった。しかし、タイムスリップした影響は大きかった。躰が疲れ切っていた。二里は、今の僕らには遠かった。

「今晩、ここに泊めて貰えませんか」と言うと、中年と少し若い男が相談し始めた。

 そして中年の男が「納屋でいいなら泊めてやる」と言った。

「お願いします」と僕は頭を下げた。

 少し若い男が、僕たちを納屋まで案内してくれた。

 農機具がいっぱい入っていた。その隅にござを敷いてくれた。

「ここで寝なせぇ」と言った。

 僕は礼を言った後、「お湯を頂けますか」と訊いた。ききょうのミルクを作るためだった。

「こっちに来なせぇ」とその少し若い男は言った。

 きくは小さなナップサックから哺乳瓶を出していた。

 さっきの土間から、先に行くと庖厨に出た。そこの隣の居間に囲炉裏があり、上から鉄瓶がぶら下がっていた。きくは、哺乳瓶にキューブミルクを五個入れると、厚手のタオルを巻き、鉄瓶から哺乳瓶に二百ミリリットルの湯を入れ、哺乳瓶に乳首のついた蓋をし、その上からキャップを被せた。それをタオルで包み、振った。ミルクを溶かせるためだった。

「井戸はどこでしょう」と僕は彼に尋ねた。

「こっちだよ」と言って案内してくれた。

 井戸は庖厨の先にあった。

「使わせてもらってもいいですか」と訊くと、「勝手に使いな」と答えた。

 僕は「ありがとうございます」と言って、頭を下げた。

 早速、桶に水を汲んで、熱くなっている哺乳瓶を付けて冷ました。

 その間に水を汲んで、別の桶に溜めて、濡れた着物や服、ききょうの着ていた物、タオルなどを洗った。

 少し温かい状態で哺乳瓶を桶から取り出すと、僕らは納屋に向かった。

 納屋に入ると、縄を見付けたので、納屋の上の方に張った。そこに濡れた着物や服やききょうの着ていた物、タオルを掛けた。

 ききょうは抱っこ紐から出して、バスタオルで包んで小さなナップサックを後ろに置いて、ベッド代わりにした。

 僕は井戸に行き、井戸の水を飲んだ。その時、老婆が出て来た。

「腹は減っていないのかい」と訊くので、「少し」と言うと「待ってなさい」と言って庖厨に行き、おにぎりを二つ作って皿に載せて持ってきてくれた。

「ありがとうございます」と言って、僕はその皿を受け取った。

 すぐにきくに食べさせたかったので、納屋に急いだ。

 きくは、ききょうをあやしていた。僕は皿に載ったおにぎりを見せた。

「美味しそうですね」と言って、一つ取り、食べ始めた。僕も残りの一つを取って食べた。

 お腹が減っていたので、おにぎりは美味しかった。

 食べ終わると皿を持って、庖厨に向かい、「済みませーん」と声をかけた。少し若い男が顔を出した。

「さっき、年老いた女の人におにぎりを頂きました。美味しかったと言っておいてください」と言って、空になった皿を渡した。

「それはお母さんだな。わかった」と言って、皿を受け取った。

 僕はすぐに納屋に行った。もう暗くなっていた。

 きくは哺乳瓶からミルクをききょうに飲ませていた。

 納屋には月明かりだけが差し込んでいた。

 ミルクを飲ませ終わると、ききょうは眠った。

「私たちも眠るか」と言うと、「そうしましょう」ときくが言った。きくには、大きなナップサックをへこませて、枕代わりと肩の辺りを包むようにした。

 僕はショルダーバッグを枕代わりにした。

 疲れていたので、すぐに眠りに落ちた。

 

 朝、目が覚めると、きくはききょうに乳を与えていた。

「おはよう」と言うと「おはようございます」と返ってきた。

「昨日は眠れたか」と訊くと、「はい、よく眠れました」と答えた。

 縄を張って干してあった物を手で触ってみると、タオルと僕の服、それにききょうの着ていた物はほとんど乾いていた。きくの着物は少し湿っていたが、着ているうちに乾くだろう。

 僕は服とタオルを畳んで、大きなナップサックに入れた。きくはききょうに乳を与え終わると、オーバーコートを脱ぎ、バスタオルを取ると着物に着替えた。

 ききょうにはバスタオルを取って、乾かした服を着せた。

 オーバーコートとバスタオルも大きなナップサックに詰め込んだ。

 顔を洗いに井戸に行くと、少し若い男と会った。

「おはようございます」と言うと「おはよう」と返してきた。

 きくも顔を洗いに来た。僕と同じように「おはようございます」と言った。相手も「おはよう」と言った。

 顔を洗ったので、はばかりを借りて、出かける準備をした。

 出かける用意ができたので、土間に行った。

「済みませーん」と声をかけると、中年の男と少し若い男性とその母が顔を出した。

 僕らは「お世話になりました」と言った。

 そうすると、母親らしい女性が「ちょっと、待ってなさい」と庖厨に行き、竹の皮に包んだおにぎりを渡してくれた。

「ありがとうございます」と僕ときくは言った。

「これは少しばかりですけれど」と言って、巾着から十文出して、上がり口の板の間に置いた。

「そんなことしないでもいいのに」と中年の男は言ったが、僕は「本当に少しばかりですが、受け取ってください」と言って頭を下げた。

 そして、僕らは農家を後にした。