小説「真理の微笑」

六十二

 十二月二十八日は朝から会社は騒々しかった。夜には忘年会があるし、年明け早々に新年会がある。その新年会に向けての準備にも余念がなかった。

 私が「仕事納めなんだから、ちゃんと気を引き締めてやれよ」と言っても効き目はなかったようだ。

 真理子も会社に残っていた。清楚な出で立ちをしていた。もちろん、あのネックレスはつけてはいなかった。

 私と真理子は社長室に入った。

「毎年、こうなのか」

 私は真理子に訊いた。

「知らないわ。朝から来るのは、今年が初めてだもの」

 私はそうなのか、と思った。多分、例年、真理子は夕方来て、忘年会にちょっと顔を出すぐらいだったのだろう。富岡が二次会に流れていくのを見送ったら、家に戻っていたのに違いない。

「今日は、最初に挨拶して、乾杯をしたらすぐに帰るから」と私が言うと、「去年までのあなたの言葉なら信じなかったけれど、今年は信じるわ」と言った。

 そういう言葉一つ一つが胸にぐさりとくる。私は富岡らしく振る舞わなければならないんだぞ、と思わずにはいられなくなるのだ。

 

 あっという間に夕方の五時になった。五時半過ぎに、高木が社長室に顔を出した。

「六時から開始ですからね。挨拶の方、お願いしますね」

「分かっている」

 私は真理子と二人で社員がいなくなったオフィスを見て回った。

「随分と大きくなったものだな」

 私はかつての(株)TKシステムズと比べていた。

「ほんとね」

「来年はもっと飛躍する年にするからな」

「期待している」

 そうしているうちに警備員が来た。

「閉めますので、お出になってください」

 会社を出ると、私は真理子に車椅子を押されながら、駐車場に向かった。

 車に乗って、忘年会をする居酒屋に向かった。車で十分ほどの所だった。

 エレベーターで二階に上がった。座敷だった。廊下から壇上までは僅かな距離だった。壇上には椅子が置かれていた。段差があるところで私は車椅子から降り、真理子と男性社員に支えられて、壇上の椅子まで歩いて行った。壇上にはマイクが置かれていた。

 私が椅子に座ると、盛大な拍手が起こった。私はマイクを取り、「座ったままでの挨拶をご容赦願いたい」と言った。

「いいですよ、座ったままで」と誰かが言った。

「ありがとう」

 私は一拍おいて話し始めた。

「今年はいろいろな事があった。見ての通り私は自動車事故に遭い、下半身はまだ痺れたままだ。しかし、その間にも会社は成長していった。トミーワープロの発売、会社の移転と大きな事が続いた。そして、みんなの努力でここまでやってくる事ができた。社長として、みんなに感謝する。ありがとう。今夜は会社のおごりだから、ゆっくりと楽しんで欲しい。長い挨拶は退屈だろうから、これで挨拶を終わりにする。乾杯の音頭は……」と近くにいる高木を見ると「田中です」と答えたので「田中君にお願いする」と言った。

 営業部の田中が立ち上がると、「皆さん、乾杯の準備はよろしいでしょうか。いいですね。それでは、トミーソフトのますますの発展と富岡社長と令夫人のご健康を祈って、乾杯」とビールの入ったコップをかざして飲み干した。

 私と真理子はウーロン茶の入ったコップを口にした。

 男性社員が駆け寄ってくるから、私が椅子から立ち上がろうとすると、「いやいや、社長。一曲、歌っていきましょうよ」と彼は言った。

 そして、私の隣にマイクを持った秘書室の滝川節子が来て、すでにスタンバイしていた。

 それからすぐに「銀座の恋の物語」(歌:石原裕次郎&牧村旬子。作詞:大高ひさを、作曲:鏑木創。発売:テイチク:1961年)のイントロが流れ出した。それに合わせて、滝川節子が歌い出し、次にマイクを渡された私は歌わないわけにもいかず、何とか歌い終わると、盛大な拍手が起こった。私は真理子の方を見て「勘弁して欲しいよ」と言った。すると、真理子は「渋い声だったわよ」と言って、くすくす笑っていた。