小説「真理の微笑」

四十三

 リハビリを終えて病室に戻った時だった。

 お腹が少しばかり膨らんでいるのが目立つ女性が、そのお腹を突き出すように椅子に座っていた。薄化粧の目鼻立ちのはっきりした女性だった。髪はセミロングでパーマをかけていた。淡いブルーのマタニティドレスに、藤色のカーディガンを着ていた。

 顔自体は私の好みではなかったが、富岡はどうだったろう。どうであれ、美人の部類に入る女性には違いなかった。

 私が看護師に車椅子を押してもらいながら病室内に入っていくと、すぐに「修さん」と声をかけてきた。私はベッドの手すりに手をかけて、車椅子からベッドに移ると、彼女は椅子から立ち上がってベッドに寄ってきた。

 看護師は私が車椅子からベッドに移動するのを確認すると、何も言わず病室から出て行った。彼女はもう一度、「修さん」と言った。

 私は「だれ」と訊いた。私の声が聞き取れなかったのか、分からなかったのだろう。

「修さん、わたしよ、わかる」

 私は首を左右に振った。

「由香里よ」

「分からない」と私は言った。

 私の顔を見ていた女は「わたしがわからないの」と言った。

 私は頷いた。そうすると、彼女は泣き出した。私のベッドの手すりに片手を置いて、それはぎゅっと握りしめられていた。

 その時、電話がかかってきた。受話器を取ると高木だった。

「今、斉藤由香里という女の人が来ていませんか」と言う。

「今、ここにいる」

「そうですか。さっき何度もお電話したんですが、お出にならなかったものですから」

 その時は、リハビリをし、頭の体操をしていた頃だったのだろう。

「今日、由香里さんが会社に訪ねてきて、社長の居場所を尋ねるものですから……」

「この女性は誰なんだ」

「知らないんですか」

「分からないから訊いている」

「斉藤由香里さんですよ、斉藤由香里さん」

「それは聞いた。名前は分かった。私とどういう関係があるんだ」

 高木は一拍おいてから「社長、あなたのお子さんを宿している方です」と言った。

 私は由香里を見た。彼女は私のベッドの手すりに顔を押しつけるようにして泣いていた。

「どういう事だ」

「そのままですよ。社長のお子さんを宿しているんです」

「そんな……。今までそんな話聞いていなかったぞ。知っていたのか」

「いいえ、とんでもありません。今日、お会いするまで知りませんでした」

「本当か」

「ええ、ですが……」

 高木は少しの間、沈黙した。

「知っていたわけではありませんが、薄々、そうなんじゃないかとは思っていました。今日、事情を聞いて驚きました」

「これまでに、会社に来た事はあるのか」

「私が知っているのは一度だけですが、ごくたまにですがお見えになっていたようです」

「そうなのか」

「はい」

「分かった。また明日にでも連絡する」

 高木との電話は切れた。話し終えるのを待っていたように、由香里は顔を上げた。

 私は枕元に来るように手招きをした。

 由香里は泣いていた顔をほころばせて、私の枕元に来て座った。

「私は交通事故を起こして、こうして入院している。事故で喉を傷つけてしまって、声がうまく出せない。だから、こんなふうにしか、今は話せない」

 由香里は、私の顔を撫でるように手を当てた。

「そうなのね」

「それと、これが重要な事なんだが、事故を起こした以前の記憶を無くしてしまった」

「えっ」

「だから、あなたが誰なのか分からなかった」

「わたしがわからないの」

「そうなんだ」

「そんな……」

 由香里は、自分のお腹に手を当てて「ここにあなたの赤ちゃんがいるのよ」と言った。

「そうらしいな」

 そう私が言うと「あなたの赤ちゃんです」と、由香里はきっぱりと言った。

「あなたが何人かの女性と付き合っているのは知っているけれど、そういう女性とわたしとは違うの。わたしは真面目にあなたの事を愛しているのよ」

 由香里の顔は真剣だった。

「分かった。でもどうして今頃……」

 そう言うと、由香里はムッとしたような表情を見せた。

「それは堂々と会社に行けるものならそうしていたわ。会社に行く時はいつもあなたから連絡があった時だけ。そうでない時は、クラブかホテルで会っていたでしょ。というよりほとんどそうだった」

 手帳にYというイニシャルが付けられていたのは由香里の事だったのか、と私は思った。

「あなたから何の連絡も来なくなったので、この二ヶ月ほどは死ぬほど心配したのよ。何かあったんじゃないかと思って……」

「そうだったのか」

 夏美と同じだな、と思った。

「会社にも電話してみたけれど、受付はいつも『社長は今は外出中です』としか言わないし。何度電話したか、知れないわ。一体、いつまで外出しているのよ、と思ったくらい」

 受付の対応は間違ってはいない。会議中とか、取り込んでいるとか言えば、それでも由香里は取り次いでくれと言っていただろう。外出中なら取り次げないし、第一、入院しているのだから、外出中には違いなかった。

「電話じゃ、埒があかないから会社に行こうとしたわ」

「そうだろうね」

「でも、悪阻がひどくて、家から出られなかったの」

「なるほど、そういう事だったのか」

「ようやく、悪阻が治まったので、会社に行ってみたの。そしたら、引っ越していたのね。引越し先が書かれていたので、ようやく行けたの」

「そうか」

「随分と立派な会社になっちゃって……」

 私は前の会社を直に見に行ってはいないから知らないが、真理子が記念にカメラで撮った写真を見せてくれた。そして、新しい会社の写真も撮ってくれていた。両方を比較すれば、今の会社は随分と大きくなったと言えるだろう。

「どうしていいか分からないから、受付の人に一番偉い人に会わせてって言ったの。最初は断られたわ。でも、わたしは必死だった。そう簡単に引く事はできなかった。騒ぎが大きくなって、広報室の何とかという人が来たの。わたしがここで今一番偉い人に会わせて欲しいと言うと、どういう用件かと言うので、それをここで大声で言っていいのなら言うけれどと言ったら、『待ってください』と誰かに電話したわ。それがきっと高木さんだったのね」

「それで高木に会えたのか」

「ええ、そう。あの人、専務なのね」

「そうだ」

「いい人ね」

 私は頷いた。富岡にしては、いい人材を専務にしたと思っていた。

「その人に、全てを話したわ。そしたら、わかってくれた」

「そうか」

「あなたが事故に遭った事も、記憶を失っている事も。それから病院の場所も教えてくれたわ。わたしに会えば記憶を取り戻すかも知れない、とも言ってくれたわ」

「なるほどね。でも、残念だが、思い出せない」

 そう。思い出せるはずがないじゃないか、私は富岡じゃないんだから。

「こうすれば」

 由香里は私に近づき、いきなりキスをしてきた。私は、咄嗟に離そうとしたが、由香里の腕には力が入っていた。私は離すのをやめて、由香里を優しく抱き寄せ、口づけをした。

 すると由香里はすぐに唇を離すと、まじまじと私を見た。何か信じられない事が起こったような顔つきだった。

「どうした」

「修さんよね」

「そうだよ」

「変わったわ」と言った。

「えっ、変わった……」

 私はしまった、と思った。キスの仕方が富岡と違っていたのだろう。

「どう言ったらいいのかしら」と由香里は言った。

「変な話なんだけれどね、まるで全く知らない人とキスをしているみたいなの」

 そう言った後で、由香里は「ううん」、と自分の言葉を否定するかのように首を左右に振った後で、「気のせいね。でもキスがなんて言うか……」と口を濁した。

「私は前の事は覚えていないから、どんなキスをしていたかなんて分からないんだ」

 私が困ったような複雑な顔をしていたので、由香里は慌てて「良かったのよ。上手だったの」と言った。

「前のあなたはもっと雑と言うか、乱暴だったと思っただけ」

 私はどう言えばいいのか分からなかった。

「ごめんね。途中でやめちゃって」

 由香里はそう言うと、再び口づけをしてきた。髪からいい匂いが漂ってきた。私の知らない香りだった。今度は、長い口づけだった。ずっと探し求めてきた富岡に、やっと会えたのだ。その思いをぶつけるかのような激しい口づけだった。

「でも、こうして会えて良かったわ」

 私は頷くしかなかった。

「そのうち、きっと思い出すわよ。わたしが思い出させてあげる」

 それは無理なんだって、とは言えなかった。またしても、私は頷いた。

「だって、あんなにも赤ちゃんができた事、あなた喜んでくれたんだもの」

 それはどういう事、と心の中で思った。私の心の声が聞こえたみたいに「奥さん、赤ちゃんができにくい体質だものね」と言った。

 真理子との間で、子どもの話が出ないのは変だと思っていたが、そうなのか、そういう事だったのか、と得心した。

 しばらく由香里と話をした後で、「また来るわね」と由香里が言うと、私は慌てて「妻と鉢合わせになる事だけは避けてくれよ」と言った。

「わかっているわよ。わたしだって馬鹿じゃないんだから」

 由香里はお腹を大事そうにしながら病室を出て行った。出て行く時、私に向かってしきりに手を振った。

 

 由香里が病室を出て行った後、私はサイドテーブルの引出しから富岡の手帳を取り出した。午後五時以降に付いているイニシャルのYは由香里だ。その他にKとSというイニシャルもある。だが、何故かあけみのAはなかった。それにしても、一体、何人の女と付き合っているんだ。殺した富岡に向かって、そう叫びたくなった。そう思っているうちに、KとSは人名のイニシャルじゃないのかも知れないと思った。Kはクラブ「楓」のKかも知れなかった。とすれば、もう一つのSもどこかのクラブのイニシャルかも知れない。由香里は、元はクラブで働いていたかも知れないが、今はどこかで働いている風ではなかった。だから、由香里だけYのイニシャルだったのかも知れなかった。