小説「真理の微笑」

七十
 由香里は出産して一週間後に退院した。私はあいにく手が離せない用事があったので、病院には高木に行ってもらう事にした。会計は高木が済ませて、由香里を自宅までタクシーで送り届けてくれていた。
 こちらの用事が済んだので、由香里に会いに自宅まで行くと、タクシーの運転手が「お孫さんですか」と高木に訊いた事を由香里は可笑しそうに私に話した。
 由香里はテーブルの椅子に座っていて、赤ちゃんはベビーベッドの中で眠っていた。退院の日は分かっていたので、予め手配をして退院日に届けてもらい、組み立ててもらうように注文していたのだった。
「あなた」
 由香里が私が座っている椅子の肘掛けにかけている手を掴んだ。由香里の部屋は狭いので、松葉杖で玄関から上がって、すぐ食堂の食卓の椅子に腰かけていた。
「この子の名前、考えてくれた?」
「いや、まだだ」
「わたしね、隼人って付けたいと思うんだけれど、どお」
「隼人か、いい名だ。それでいいんじゃないか」
 由香里はベビーベッドに行き、中の赤ちゃんの手を掴んで「おとうちゃまは隼人でいいって言ってまちゅよ。あなたもそれでいいでちゅね」と赤ちゃん言葉で言った。
「躰は大丈夫か」
「大丈夫よ、病気じゃないんだから」
「そうか」
「なるべく早く出生届を出したいんだけれど、あなたも行ってくれる」
「私は……」と口ごもった後で、「一緒に行きたいが付き添えない」ときっぱりと言った。
「そう、じゃあ、わたしひとりで行くわ」
 そう由香里が言った時、不安が過った。由香里がどう書いて出すのか確認した方が良いのではないかと思ったのだ。勝手に子の氏名を「富岡隼人」と書いて出すのではないかという疑いが頭に浮かんだのだ。
「いや、待て、私も行く、一緒に出す」
 由香里は「ああ、良かった」と安堵の声を上げた。

 由香里は五日後に隼人の出生届を区役所に出しに行った。私もついていった。赤ちゃんはベビーシッターを頼んで見てもらう事にした。
 子の氏名は「斉藤」「隼人」と書き、父母との続柄の欄では「嫡出でない子」のところにチェックマークを付けた。
 後は父親の氏名の欄に「富岡修」と由香里が書くのを黙って見ていた。
 住所は由香里のアパートで世帯主も斉藤由香里と書いていた。
 それらを私は確認すると、由香里は出生届を係の者に渡した。