小説「真理の微笑」

四十四

 九月の二十九日は、高瀬である私の誕生日だった。

 毎年、私の好きなショートケーキを夏美が買ってきてくれて、祐一と三人でお祝いをした事を思い出した。だが、今はベッドの上で一人夕食を食べている。

 

 十月になった。

 しかし、猛暑は続いていた。ただ、特別個室内はエアコンが効いていて快適だった。

 入院して三ヶ月が経った。

 なんとか松葉杖をついて立てるようになった。トイレにも一人で行く事ができるようになっていた。おむつは取れた。この解放感が私を喜ばせた。

 あけみは毎週やってきた。木曜日か、金曜日の午前十一時頃が多くなった。長くいるわけではなかった。昼食が午前十二時少し前に運ばれてくる事を知っていたから、その前に帰って行った。あけみは来る時は、巻きスカートにTバックが定番になった。私は、三十分ほどあけみを喜ばせた。あけみもフェラチオをしたがったが、それは頑強に断った。あけみもフェラチオができない事がわかっているから、午前十一時に来るようになったのだろう。

 由香里は二度来た。お腹は来る度に大きくなっていくように見えた。

 高木に由香里の出産費用の事を頼んだ。その事を由香里に伝え、困った事があれば高木に相談するように言った。

 私は子どもが生まれれば、定期的に由香里に仕送りしようと思っていた。子どもの養育費だと考えれば、気持ちの上で整理が付くし、高木にも説明しやすかった。

 しかし、高瀬である私にとって、殺した相手の子どもの世話までみなければならないのかと思うとやるせなかった。

 夏美にも仕送りしたいと思ったが、こればかりは高木に頼むわけにはいかなかった。夏美の事は誰にも知られるわけにはいかなかったのだ。

 介護用のタクシーを使えば、自分で金融機関に行く事もできる。そうしたら、その時夏美にお金を振り込めばいい。そう考えたが、金融機関を使うのは危険だ、という事に気がついた。身分証を求められたらアウトだし、振り込んだ記録が残る。誰が振り込んだのか、それで分かってしまう。

 しばらく考えて、現金書留で送るのが一番良いと気付いた。これなら偽名でも送れる。事前に偽名を教えておけばいい。それはパソコン通信のメールで知らせられる。

 

 真理子が来た時に、主治医に呼ばれて診察室に二人で入っていった。

 今までの結果報告のようなものだった。

 私はもう二ヶ月ほどすれば退院できるという事だった。これは嬉しかった。真理子と顔を見合わせて喜んだ。

「一時は相当、危なかったですが、よくここまで回復されましたね」

 そういう担当医の言葉が身に染みた。

 主治医はパソコンを操作してプリントアウトした検査結果の数値の表を見せた。月日別に数値が並んでいた。内臓、特に肝臓と腎臓が回復してきているのが、表を見れば一目瞭然だった。

 腎臓は、最初は透析をしなければならないかと考えたそうだが、血液検査の数値がそこまで悪くなくて、何とか透析しないでも良くなってきていると言った。最後に肝臓だが、その数値は最初はひどく悪かったようだ。しかし、今はまだ数値的には高いが、だんだん低くなっているので安心していいという事だった。

 膝は現状以上には良くはならないので、自力歩行はできないと言われた。しかし、松葉杖を使えば、少しの距離なら移動できるだろうと言われた。基本的には、車椅子を使う事になるが、手は今よりももっと動かせるようになるので、不便ではあるが一応何処にでも行けるようになると言われた。肘が良くなっているので、リハビリをすれば、車椅子をもっと楽にそして自由に使えるようになるだろうと言われた。

 喉の状態は良いと言われた。元の声と同じ声が出せるかは分からないが、もう普通に話してもいいはずです、と言われた。

 ただ、リハビリと検査は続ける必要があるので、当分の間、病院に通わなければいけないそうだ。

 そして最後に、今、入院しているのは、街に出て細菌の感染を防ぐためでもあるのです、と言われた。今の私は免疫力が落ちているので、普通の人なら重篤にならない普通の雑菌でも、感染したら危険な状態になる可能性があると言われた。

「言わば、安全な所に隔離しているわけです」

 担当医は冗談めかして言った。

 

「あと二ヶ月かぁ」

 病室に戻ると、私は言った。

「あと二ヶ月よ」と真理子が言い返した。

「これまでに比べれば、あっという間よ」

「そうだな」

「一時は危篤状態だったんだから、よく回復してきたものだわ」

「そうなんだ」

「そうよ。あなたは意識がなかったから覚えていないだろうけれど、大変だったのよ」

「今も大変だけれどね」

「どういう事」

 つい、女たちの事を思って口にしてしまったのに気付いた私は、「こんな躰だからね」と答えた。

「それはしょうがないわよ。よく、ここまで回復した事を感謝しなくちゃ」

「そうだね」

「わたし、帰るけれど、用事ある」

「いや、特にないよ」

 そう言いかけて、「いや、待ってくれ」と言った。

「退院するなら、服がいる。今ある服では痩せた俺の躰には合わない。テーラーを呼んでくれ。服を何着か作りたい」

「じゃあ、いつもの服屋を呼ぶ?」

 私はすでに考えてあったある洋服店の名をあげた。富岡御用達の服屋には富岡の服のサイズがカルテのように書き込まれたものがあるだろう。もし、痩せただけなら腰や胸回りのサイズは変わるだろうが、背丈や股下のサイズなどは変わらないだろうから、不審に思われるのは避けた方が良かったのだ。だから、全く新しい洋服店を選ぶほかはなかった。

「そう、わかったわ。ここに採寸に来てもらうようにするわ。いつがいい」

「早い方が良い。向こうの都合に合わせてなるべく早く来てもらうようにしてほしい」

「わかったわ。頼んでおくわ」

 真理子はそう言うと出て行った。