小説「真理の微笑」

三十一

 真理子が戻ってくる前に看護師がやってきた。着替え用のパジャマを今日と明日の分の、合わせて二日分置いていった。明日が日曜だったからだ。その際、来週から言語聴覚士のところにも行く事になった事を伝えられた。どの程度話せるのか調べるのだと言う。

 真理子が帰ってくると、ベッドに電気量販店の袋を置いて、「これでいい」と言った。

 私は中を確かめて、「済まない、ありがとう」と答えた。

「ちょうど二つしかなかったわ。あなたの言っていたそのソフト」

「そうか」

 そうかも知れなかった。二つ買ってくるように言ったが、量販店でもこの手のソフトは一つしか置いてない事も多かった。ない事だって考えられた。私はあるソフトを探して秋葉原の店を何軒も見て回った事を思い出していた。二つあったのはラッキーだった。

 これで月曜日にラップトップパソコンが来れば、すぐに作業に取りかかれる。私は嬉しくなって、パソコン通信ソフトの箱を開いていた。箱の中は、フロッピーディスク一枚にマニュアルとユーザー登録用葉書が入っていた。私は早速、マニュアルに目を通した。

 真理子はといえば椅子に座って、コップの水を飲んでいた。

 

「隆一さん」

 突然、真理子にそう呼ばれて、私は反射的に顔を上げようとした。だが、日頃、自分は富岡だと言いきかせていたものだから、何とかそのままパソコン通信ソフトのマニュアルを読み続ける事ができた。

「高瀬隆一って言うのね、失踪している人の名前は」と真理子は買ってきた週刊誌を読みながら言った。しかし、真理子が私を見ているのは確かだと思った。真理子は私を試しているのか。そう思うのが普通だった。さっきの呼び方は私に向けられていた、と思う他はなかった。これだけ会っているのだ。私を富岡ではないと思っても不思議ではなかった。では誰なのかと思うだろう。富岡が自動車事故を起こした頃に失踪した高瀬隆一という人物が真理子の頭に浮かんできたのかも知れない。だが、そうだとしたら、どうしてこれだけキスをする事ができるのだろうか。私たちはまるで愛し合っているかのようにキスをしている。私は真理子を愛し始めているから、それは自然だったが、真理子の方はどうなのだろう。もし、確かめているのだとしたら、もう十分ではないのか。私には真理子の心も考えている事もまるで分からなかった。

 

 真理子は週刊誌を置いて、会社の話を始めた。

「会社の移転はそんなに時間はかからないようよ。業者が、ぱっぱとやるようだから」

「そうだろうね。家の引越しの大がかりなものだと思えばいい」

「それに、移転に必要な書類は役員たちがやってくれるようだし……」

 わたしなんて必要ないんじゃないの、と真理子は言いたげだった。

「家の改修は?」

 私は話題をそらした。

「そうだったわ。そっちも進めなければね。改修中は家にいなければならないから、会社には行けないわね」

「会社の移転と同じ時期にやればいい」

「わたしもそう思っている。でも、家の改修は一週間ほどかかるようよ」

「へぇ~、そんなもんで済むんだ。大した事ないじゃないか」

「会社の引越しは土日でやっちゃうから、それに比べたら……」

「家の方が大事だよ。真理子がいてくれなけりゃ、どうにもならないんだから」

 これは本音だった。私はまだ富岡の家に行った事すらない。ただ、改修の話を聞いているだけで自分の家だというイメージはなかった。だから、真理子にすべてを任せていたのだ。実際に富岡の自宅に入って、不便を感じたら、その時にまた直させればいい、そのぐらいに考えていた。

「家の事は覚えているの」

「いいや、全然」

 私は慌てて否定した。

「そうなの。覚えているのかと思った」

「それは違う。全く思い出せない」

「そうなの」

「事故を起こす前の俺はどうだったんだ」

「本当に思い出せないの」

「そう言っているだろう」

「わかったわ。教えてあげる。そうねぇ、あなたは会社人間だったと思うわ」

 私はどう答えていいか分からなかった。前に富岡の事を会社人間と訊いた時には、否定的な言い方を真理子はしていた。でも、今は会社人間だったと思うとはっきり答えている。一体、どっちが本当なのだろう。

「でも、夫としてはどうかな。わたしにはいい夫ではありませんでした」

 これは本音だろう。

「きついな。でもキスをしているじゃないか」

 真理子は近づいてきて私の顔をまじまじと見た。

「入院してからよ」

「えっ」

「あなたが目覚めてからキスをするようになったの」

「そんな。そうなの」

「ええ。そりゃ、結婚当初はよくしていたけれど……」

「じゃあ、どうして」

「最初は、あなたの記憶が戻るかと思って……。わたしの顔を見ても初めは分からなかったでしょ」

 私は頷いた。

「だからよ。キスすれば、少しは思い出すかも知れないと思ったの」

「そうだったのか。俺はてっきりいつもしているものだと思っていた」

「もう結婚して十二年にもなるのよ。そんなわけないじゃない」

 そうか、富岡は真理子と十二年間結婚していたんだ。だったら、子どもは? これまで話に出てきていないのだから、子どもはいないんだな。どうしてだろう。富岡か真理子に問題でもあるのか。

「でも、今は真理子といつでもキスをしていたい」

 真理子は笑った。

「いいわよ、ほら」

 私は真理子とキスをした。柔らかな唇だった。それをこじ開けるようにして舌を入れたら、真理子も口を少し開けた。真理子の舌と私の舌が絡まった。

 私は口を少し傾けて、真理子の口を吸った。真理子も応じた。その時、下半身に痺れるような感じを覚えた。私は勃起していた。

「あなた、変わったわね」

 真理子はそう言った。私はドキッとした。そう言われる事が一番、怖かったのだ。

 あんなキスをするんじゃなかったと思った。でも、真理子の唇を吸っていたら止められなくなった。真理子は美しかった。こんなにも美しい女性とキスをしていて、途中でやめられるだろうか。

 

 それからほどなくして真理子は帰っていった。明日、見積もりが来ると言っていた。だから、明日は来なくていい、と言ったら「わかったわ」と答えた。

 毎日、病院に来て、会社に行くのも疲れるだろう。それに、家の改修で見積もりが自宅に来る。それだって、時間がかかるだろう。真理子は、頑張りすぎているのだ。少しは休んだ方がいい。本気でそう思った。