小説「真理の微笑」

十四ー2

 その様子を見ていた真理子は、顔を近づけると「凄いわね。なんだか、前より鋭くなった感じ」と言って、今度も真理子の方から唇を重ねた。

 私はその柔らかい唇の感触を楽しんだ。そして、私は舌を真理子の口に入れた。その瞬間、真理子はちょっと驚いたようだったが、すぐに応じた。真理子が何に驚いたのかについては、深く考えなかった。とにかく、永遠にでも続けていたかった。

 だが、ドアがノックされて、「昼食です」と看護師が入ってきた。

 慌てて離れた真理子は、私のベッドの上に移動式のテーブルを持ってきた。運ばれてきたお膳はその上に載った。六種類の器があった。

 私はベッドの角度をさらに起こして、背中をベッドから離した。

 蓋を開けようとしたが、指が上手く動かなかった。文字は書けるのに……と思った。

「わたしがやるわ」

 真理子がそう言った。看護師は、お願いしますね、と言って出て行った。

 スプーンは何とか掴めた。それで「何にする」と、真理子が訊くので「煮物がいい」と答えたつもりだった。上手く話せなかったが、真理子には私の言いたい事が伝わった。

 真理子がおかずの入った皿を顔のすぐ下まで持ってきた。おかずは細かく砕いたものを成形したような感じだった。成形された煮物のようなものはスプーンで掬えた。口に入れるとすぐに崩れた。そして喉を滑り台のように通っていく。

 味噌汁は、とろみが付けられていた。意外な事にそれが番茶にもだった。

 お粥を半分食べたところで食欲がなくなった。

「もう少し食べなくちゃ」

「いや、もういい」と、しゃべりにくいところをなんとか言い、私はスプーンを置いた。

「わかったわ。でも、なるべく食べて力をつけてね」

 私は頷いた。

 

 真理子が帰っていくと急に寂しくなる。どうしてだろう。分かっていながらそう思った。

 夕方に来ると言っていた。数時間の辛抱だった。

 今日、ファイルを見ていて改めて思った事だが、トミーソフト株式会社用にカスタマイズされてはいるが、あれは紛れもなく(株)TKシステムズのワープロソフトだった。今までのワープロソフトと違って画期的なのは、文書の中に罫線を引いて表を作れば、その表はまるで表計算ソフトのように扱える事だった。トミーソフトが手を加えていたのは、もう一つの機能の方だった。それはファックスをプリンター代わりに使えるようにする事だった。これで文書をプリントアウトしなくても直接相手のファックスに送信する事ができる。ただ、問題はこちらのパソコンが電話回線に繋がっていなければならないという事だった。パソコン通信がようやく流行りだしていた頃だった。電話回線に繋がっているパソコンはそう多いとは言えなかったが、使える機能である事に違いはなかった。

 次のワープロソフトについては、アイデアはいっぱいあった。表計算もどきのような機能を付けられたのだから、次のバージョンでは住所録を付けて、差し込み印刷機能を使って、年賀状なども作れるようにしたらどうだろうかと思っていた。今は年賀状ソフトは別に売られている。結構、いい値段がしていた。これらを合体したら売れるに決まっている……と思った。だが、その製品は(株)TKシステムズではなく、トミーソフト株式会社から出る事になるのだ。アイデアを思いついても、釈然としない思いが抜けなかった。

 

 それにしても、今日の事で分かった事だが、車を運転してから目覚めるまでの記憶は曖昧だったが、それ以外の記憶、例えばプログラムもすぐに理解できた。と、そこまで考えてきて、今日はやり過ぎたのかも知れないと思った。私は富岡を知らない。富岡がこのソフトの開発に携わっていたとは限らないではないか。いや、むしろアイデアだけ出して、後はプログラマーに任せていたのではないか。プログラミングなんて自分ではできないに違いない。その方が私のイメージする富岡に合っていた。

 そうだとしたら、あの社員たちは、私が膨大な資料の中から、どうやってバグの在処を見つけたのか、不思議に思わなかっただろうか。いや、そう思ったに決まっている。彼らが見せた驚きの表情は、それを物語っていたのではなかったのか。

 迂闊だった。

 資料をただ置いていかせれば良かったのだ。そして、後日、このあたりは試したのか、ぐらいにしておけば良かった。何故、ああも易々とバグの在処を教えてしまったのだろう。

 …………

 答えは分かっていた。真理子がいたからだ。真理子の前でいいところを見せたかったのだ。不用意にも、そのために愚かな危険を冒してしまった。

 

 夕方、真理子がやってきた。自分の気持ちが明るくなっていくのが分かった。

「ちょっと、会社に寄ってきたけれど、あなたの指摘、どうやらいけそうよ。何となく活気づいていたもの。でも、不思議よね。ソフトの事だけ、どうして覚えていたのかしら。まして、あなたがプログラムをわかるとは思ってもいなかったわ」

 その言葉で明るくなった気持ちは萎んでいった。痛いところを突かれて言葉もなかった。

「それにね」と言い始めて、彼女は少し顔を赤らめた。

「キスしたの、どれくらい前になるのかしら。この前はついそうしてしまったけれど……」

 血の気が引いていくのが分かった。しまった、と思った。結婚してすぐならともかく、しばらく経っていたとしたら、それほどキスをするだろうか。それにキスには個性が出る。

 夏美を思い浮かべた。祐一ができてから、キスらしいキスをしただろうか。少なくとも結婚前のようなキスはしていなかった。

 だが、真理子とは婚約したばかりの恋人同士のようなキスをしていた。唇を重ねる事にどれほど心が弾んだ事だろう。その時、キスに内在する個性について考えていたのか。

「あなた、そんな顔をしないで」

 真理子は私の腕をとって言った。

「この前も今日も嬉しかったの。ほんとよ」

「…………」

「出会った頃のあなたを思い出していた」

 真理子は私を抱き締めるようにし、頭を胸に押し当てた。

 私は心の誘惑に負け、そんな真理子を抱き締めた。そしてたどたどしく言った。

「記憶を失った事で、初めて出会った頃のような気がしている」

 下手な言い訳のような気分だったが、「そうね。そうよね」と、胸のあたりから聞こえて来る真理子の言葉が心地良かった。その心地よさに浸っていたかった。

 真理子のような女性から、心を寄せられている事が分かっていて平気でいられる男がいるだろうか。私にはできなかった。富岡の仮面を被っている事を忘れ、真理子とキスをした。とろけるような時間だった。富岡とは違うキスをしていても構うものかと思った。

 だが、それも永遠には続かなかった。ドアがノックされ、今度は夕食が運ばれてきた。

 真理子はベッドに移動式のテーブルを持ってきて、看護師がそこに夕食の膳を置いた。

 真理子がウィンクして笑った。昼食の時と同じだったからだ。

 

 やはり真理子が帰っていくと寂しくなった。私は真理子に恋をしていた。だが、私は彼女の夫を殺した男だった。その事が消えて無くなるわけでもなかった。いつまでもこの状態が続くとは思えなかった。どこかで破綻する。それまでの儚い夢なのだ、と思った。

 心が落ち着いてくると、夏美と祐一の事が思い出された。真理子と違って、美人ではなかったが、愛嬌のある顔をしている夏美の困惑している顔が浮かんだ。もう二ヶ月ほども私は失踪している事になっている。(株)TKシステムズはどうなっているのだろう。次のソフトの発売に向かって動き出していただけに、混乱しているに違いなかった。

 会社がどうなっているのか、知りたかった。だが、ベッドにいる自分にはどうする事もできなかった。思いだけが広がっていった。

 中島や岡崎はどうしているのだろう。まだ、会社に残っていてくれているのだろうか。それとも……。疑問だけが次々に湧き起こり、眠れなかった。