小説「真理の微笑 真理子編」

四十
 真理子は家に戻ると、すぐシャワーを浴び、ベッドに横たわった。
 明日、見積もりが来ることを話したら、富岡が「明日は来なくていい」と言った。真理子は「わかったわ」と答えた。富岡となっている高瀬隆一にどうこれから向き合っていったらいいのか、考える時間が欲しかったので、富岡の申し出はありがたかった。
 高瀬が富岡になっているのはわかったが、わからないことが一つだけあった。それは、高瀬がどうして富岡の結婚指輪を嵌めていたのか、ということだった。いろいろと理由を考えてみたが、どれも腑に落ちなかった。そのうち、真理子は眠っていた。

 午前九時に真理子は起きた。シャワーを浴びて出てきたところに電話がかかってきた。見積もりに来ると言っていた業者からの電話だろうと真理子は思った。
「はい、富岡です」と真理子は言った。
 すると「俺だ」という富岡のしゃがれた声が聞こえてきた。
「あなたなの」
「そうだ」
「で、どうしたの」
「真理子がどうしているかと思って……」
「馬鹿ね、今日は家の改修工事の見積もりが来るって言ったでしょう。だから待っているのよ」
「そうだったね。何時頃の約束なんだ」
「午前十時よ。あと一時間ほどで来るわ」
「そうか。日曜日もゆっくりできないんだね」
「そんなことないわ。ただの見積もりだもの。あなたは、あなたはどうしているの」
「こうしてお前と話している」
 真理子は笑って、「来て欲しいんでしょう」と言った。
「いや、いいんだ」
「見積もりが済んだら行くわよ」
「だったら午後三時頃、来てくれないか。冷たいアイスクリームが食べたい」と言ってから、富岡はある有名なアイスクリームの品名を口にした。
「あら、あなたアイスクリームの名前、思い出したの」
「いや、雑誌に載ってたから食べてみたいと思って」
「わかったわ。買っていく」
「それから、財布も持ってきてくれないか」
「買物するなら、わたしがするけど」
「真理子がいないときに看護師に買ってきてもらうのに必要じゃないか」
「いいわ。持って行く。午後三時ね」
「うん、三時だ」

 午前十時に見積り業者が来た。三人だった。
 二階の居間に案内し、ソファに座ってもらった。
「お気遣いなく」と言うのを聞きながら、冷えた麦茶をコップに注いで三人に出した。
 真理子がソファに座ると、責任者と思われる人が挨拶をして名刺を出した。
 名刺には****施工店と書かれていた。肩書きは「社長」となっていた。
「社長さんでいらっしゃるんですね」と真理子が言うと、「いや、小さな工務店ですから」と相手は言った。
 真理子はすぐに本題に入った。
 富岡が事故で怪我をして、車椅子の生活を送ることになること。そのために、この家を改修したいということ。そのための費用と、改修にどれだけの期間が必要かを訊いた。
「ではお宅を拝見させて頂いて、それからご相談しましょう。家の方を測らせて頂きますので、よろしくお願いします」
「わかりました」

 業者は、家の設計図は予め用意していた。そこに三人で測った数字などをいろいろと書き込んでいった。
 見積もりには、意外に時間がかかった。富岡と約束していた午後三時に間に合うのかと、心配していたが、社長からいろいろと説明を聞いて、見積もりの費用の概算が決まったのは午後二時過ぎだった。

 三人が帰ると、化粧をして服を着替えた。
 そして車に乗り、途中のアイスクリーム店で、富岡が言っていたアイスクリームを買うと、病院に向かった。
 病室に入ると、真理子は富岡にキスをして、二人で買ってきたアイスクリームを食べた。
「事故を起こしてからのあなたは変わったわね」
 この言葉を言う時、真理子は痺れるような快感に囚われた。富岡がどう答えるのかが、楽しみだった。
「そうか」
「キスがうまくなったもの」
「俺は変わっていないつもりだけど、もしそうだとすればリセットされたからだろう」
「リセット?」
「パソコンを起動し直す時に、リセットするだろう」
「変なことを言うのね」
「記憶をなくしたから新鮮なんだ、何もかも」
「女房と畳は新しい方が良いって言うものね」
「馬鹿なこと、言うな」
「冗談よ」
 真理子は笑った。今日も、上手くあなたは、切り抜けたわね、高瀬隆一さん。
「で、見積もりの方はどうだった」と、富岡は話題を変えてきた。
 そう来るかと思った真理子は「結構かかるわね」と答えた。
「そうか」
「段差のある所にはスロープをつけてもらうようにしたわ。これは大したことなかったけれど」
「けれど……」
「二階に上がるのに、椅子式階段昇降機というのを付けることにしたの。一番性能のいいのにしたのよ。これに費用が一番かかったわ」
「どれくらいした」
「百五十万円ぐらいだったと思うわ」
「そうか」
「バスルームとかトイレの改修も加えると、全部で三百万円ほどかかるわね。今回ね、トイレをウォシュレットにすることにしたの」
「分かった。とにかく真理子に任せるよ」
「任せてちょうだい」
「それから商品企画会議のことなんだが」
「なにそれ」
「次の商品をどうするかってことを決める会議のことだよ」
「今はTS-Word、いえ、今やトミーワープロかな、そのことで忙しいから、そんな会議やっている暇はないんじゃないの」
「そんな時でも企画会議は開くものなんだよ」
「わかったわ、早速、明日、高木専務と相談してみる」
「いや、それは私から電話する」
「そう」
「企画会議は、商品に詳しい者たちにやらせる」
「わたしには、出るなってこと」
「出ても分からないだろう」
「そりゃあ、わからないだろうけれど……」
「専門分野は、専門家に任せておけ」
「…………」
「会社移転もあるし、家の改装だってある。何もかも背負い込んだら身が持たないぞ」
「それも、そうね」
 真理子は、病室を出る前に富岡である高瀬とキスをした。