三十九-2
必要なものを買うと、真理子は病院に向かった。
戻りながら、富岡が高瀬隆一であることを確かめたくなった。通りがけに書店が目に入ったので、車を止めた。
店内に入ると、週刊誌が置かれているコーナーに向かった。大抵の週刊誌は、トミーワープロが売れていることとその社長が自動車事故に遭ったことを載せていた。ただ、一誌だけが高瀬隆一の失踪について書いていた。真理子はその週刊誌を手にすると、記事を読んだ。記事によれば、七月三日に警察に捜索願が出されているそうで、高瀬隆一の失踪はその二日前からと書かれていた。二日前と言えば、富岡が蓼科の別荘に行った日ではないか。真理子は手を振って富岡を送り出したことを、鮮明に覚えていた。当然だった。この蓼科行きで、富岡は自動車事故を起こして死亡するはずだったからだ。真理子は最期の別れと思って見送っていたのだ。
記事には、目線は消されていたものの、高瀬隆一の妻と子どもの写真が載っていた。これを富岡が高瀬隆一であるとしたならば、どう見るだろうか。
真理子はその週刊誌を買って、書店を出た。
真理子は病室に入ると、「これでいい」と言って、ベッドに電気量販店の袋を置いた。
中を確かめた富岡は「済まない、ありがとう」と答えた。
「ちょうど二つしかなかったわ。あなたの言っていたそのソフト」
「そうか」
真理子は椅子に座って、コップの水を飲んだ。
いよいよだ。真理子は、富岡の方をじっと見ながら、「隆一さん」と呼びかけてみた。
富岡の躰が一瞬止まったように見えた。しかし、富岡は顔を上げようとはせずに、パソコン通信ソフトのマニュアルを読み続けていた。
真理子は買ってきた週刊誌を読みながら「高瀬隆一って言うのね、失踪している人の名前は」と言った。だが、富岡はそのままパソコン通信ソフトのマニュアルを読んでいた。
普通なら、「なに」とでも言いそうなのに、ことさら無関心であるのは、それを装っているからではないのか、という思いが真理子には湧いた。
ある程度の確信を持った真理子は、週刊誌を置いて会社の話を始めた。
「会社の移転はそんなに時間はかからないようよ。業者が、ぱっぱとやるようだから」
「そうだろうね。家の引越しの大がかりなものだと思えばいい」
呪縛から解けたように、富岡は言った。
真理子は、「それに、移転に必要な書類は高木さんが何とかしてくれるようだし……」と言った。
「家の改修は?」
「そうだったわ。そっちも進めなければね。改修中は家にいなければならないから、会社には行けないわね」
「会社の移転と同じ時期にやればいい」
「わたしもそう思っている。でも、家の改修は一週間ほどかかるようよ」
「へー、そんなもんで済むんだ。大したことないじゃないか」
「会社の引越しは土日でやっちゃうから、それに比べたら……」
「家の方が大事だよ。真理子がいてくれなけりゃ、どうにもならないんだから」
「家のことは覚えているの」と真理子が突っ込むと、「いいや、全然」と富岡は否定した。
「そうなの。覚えているのかと思った」
「それは違う。全く思い出せない」
「そうなの」
「事故を起こす前の俺はどうだったんだ」
「本当に思い出せないの」
「そう言っているだろう」
「わかったわ。教えてあげる。そうねぇ、あなたは会社人間だったと思うわ」
真理子はわざと前の言い方と違う言い方をした。以前は、富岡が自分は会社人間だったのだろうか、と訊いた時に、否定的な言い方を真理子はしたのだった。
「でも、夫としてはどうかな。わたしにはいい夫ではありませんでした」
「きついな。でもキスをしているじゃないか」
「入院してからよ」
「えっ」
「あなたが目覚めてからキスをするようになったの」
「そんな。そうなの」
「ええ。そりゃ、結婚当初はよくしていたけれど……」
「じゃあ、どうして」
「最初は、あなたの記憶が戻るかと思って……。わたしの顔を見ても初めはわからなかったでしょ。だからよ。キスすれば、少しは思い出すかも知れないと思ったの」
「そうだったのか。俺はてっきりいつもしているものだと思っていた」
「もう結婚して十二年にもなるのよ。そんなわけないじゃない」
「でも、今は真理子といつでもキスをしていたい」
「いいわよ、ほら」
真理子は富岡とキスをした。いや、高瀬隆一とキスをした。
「あなた、変わったわね」
キスをし終えると、真理子は富岡となった高瀬隆一に向かってそう言った。