小説「僕が、剣道ですか? 7」

二十六

「今日も勝ちましたね」とあやめが言った。

「うん」

「当然ですね」

「そうだが、張り合いがない」

「でも、時を止められる倉持喜一郎がいるんでしょう」とあやめが言った。

「どうして分かるんだ」

「だって、主様は剣道のことでは、倉持喜一郎のことしか考えていませんから、自然とわかるんです」

「私の頭の中を読んでいるわけじゃないよね」と僕は訊いた。

「いいえ」とあやめは答えたが、絶対に読んでいる、と思った。その力があるのに使わないはずがなかった。

「わたしのこと、疑ってますね」

「うん」

「当たっています」

「やっぱりそうじゃないか」と言うとあやめは、うふふ、と笑った。

「わたしには近藤さんは必要ないようですね」と言った。

「使いようがないだろう」

「それもそうですね」と言うと、躰の中に入ってきた。

 そして交わった。普通の男女の交わりとは異なっていた。全身が痺れるような感覚だった。

 

 次の日は、試合がないから家にいた。普通は試合会場に行くのかも知れないが、僕は落ち着かないからそうはしなかった。

 父は会社に行き、母はダイニングテーブルで電化製品のカタログを見ていた。

 僕はきくに算数を教えていた。今は九九を覚えさせていた。九九は暗算の基本だったからだ。

「四、九」と僕が言うと、きくは「三十六」とすぐに答えた。

 きくが九九を覚えるのは、早かった。

 一桁台の足し算と引き算の暗算をした。これもすぐにできた。

 次は漢字を書かせた。

 簡単なのは書けた。少し複雑なものは間違えた。熟語で書けない漢字は、ひらがなで書いても相手には通じることを教えた。

 お昼を食べると、ききょうと京一郎を母に預けて、買物に出ることにした。

 今日は天ぷらにすると母が言ったので、その材料の買出しだった。

 魚はエビとキスとイカ、野菜はカボチャ、サツマイモ、アスパラガス、大葉あたりかなと思って、スーパーに向かった。

 買物自体は、きくにさせるつもりだった。

 まずは野菜からだった。カボチャ、サツマイモ、アスパラガス、大葉は、品物を見せて、名前を覚えさせた。次はエビとキスとイカだった。これも物を見せて、その物と名前を覚えさせた。

 それから、卵を買物籠に入れた。小麦粉は家にあった。

 そして、きくをレジに並ばせた。きくの隣に立って、きくが上手く買えるかどうか、確かめた。四千三百八十四円だった。きくは財布から、まず四千円を出し、次に五百円硬貨を出し、それで終わりかと思ったら、三十四円出した。お釣りは、百五十円だった。

 買物が終わった後、「これで良かったですか」と訊いたので、「上出来だ」と答えた。

 買物帰りに、近くのケーキ屋でティラミスを四つ買った。

「三時のおやつですね」ときくは言った。

「そうだ」

「コーヒーが良いですか」と訊くので、「うん」と答えた。

「わかりました」

 

 午後六時に風呂に入った。ききょうと京一郎も入れた。

 京一郎は浴槽に浸けるだけだったが、ききょうは抱いて入れた。ききょうは浴槽の中では、僕の首に抱きついていた。

 二人をきくに渡すと、僕は再び浴槽に躰を浸けた。

 

 僕が風呂から出てくると、待っていたように母が「カボチャを切ってよ」と言った。カボチャは硬くて切りにくいのだ。だから、カボチャだけは僕が切った。後は、母ときくに任せた。母はきくに天ぷらの作り方を教えていた。

 天ぷらの下準備が整うと、「ご飯よ」と呼ばれた。

 揚げたての天ぷらを食べさせたかったのだろう。キッチンで揚げられて、すぐに運ばれてくる天ぷらはさすがに美味しかった。揚げたての天ぷらを運ぶのは、きくだった。天ぷらの揚げ方も最初は教えていたが、揚げる方が速くなって、追いつかなくなった。

 父はまだ帰っていなかった。

 だから、揚げたてを食べるのは僕だけだった。

 ご飯もお代わりをした。

 そして、食べ終えると、母ときくが食べるのを待たずに、早々に三階に上がっていった。

 

 沙由理からメールが来ていた。この前は風邪をうつしちゃいけないと思ったから、応援に行かなかったけれど、明日は必ず応援に行くからね、という内容のものだった。

 必ず勝つから、治るまで無理はするなよ、と返信した。

 すると、あなたが勝つところを見たいんじゃない、という返信が来た。

 そりゃ、そうだな、と思ったが、返信はしなかった。

 

 次の日が来た。

 富樫が迎えに来た。

「会場でなんか、待ってられないからな」と言った。

 僕は剣道具を持つと、駅に向かって歩き出した。

「準々決勝で負けてもベスト八だからな。明日は学校に来いよ」と富樫が言った。

「なんで」と訊くと、「インターハイの報告を校長にするんじゃないか。それに女子応援団にも挨拶をしないと」と答えた。

「校長とか、女子応援団は学校に来るの」と訊くと、「来るに決まっているじゃないか。監督が一昨日そう言ってたろ」と答えた。

 監督が何か言っていたのは知っていたが、聞いていなかった。

 そうか。勝てば勝ったで、面倒なんだな、と思った。まして、優勝なんかしたら、とんでもないことになりそうな気がした。

 

 会場に着くと、監督や部員が待っていた。

 少し離れた所に、マスクをした沙由理が立っていた。僕が彼女の方を見ると、沙由理は手を大きく振った。

 僕は軽く手を振った。

 控え場所に行くと、二階席の女子応援団が見える。気合いが入っているのが、分かった。その後方に沙由理がいた。今日は大人しくしているようだ。風邪をひいてくれて良かったと思った。

 

 お偉いさんの挨拶が終わると、いよいよ男子個人準々決勝が始まる。

 僕は防具を着けて、竹刀ケースの定国を触った。定国の力が手に移ってきた。

 立ち上がった。女子応援団の応援が始まった。前回のようなコスチュームは着ていなかった。主催者に注意されたそうだ。それでも、声の応援は凄かった。でも、僕は集中していた。

 試合場の方に向かってゆっくりと歩き出した。

 

 試合場に入ると、応援はやみ、静かになった。

 準々決勝の相手の名が呼ばれた。知らない奴だった。そして僕の名が呼ばれた。

 僕は試合場として引かれたコートの線の上に立った。二歩ほど進んで、相手と向き合い礼をした。そして、三歩進んで、開始線で蹲踞の姿勢を取った。中央には×印が書かれていた。

 剣先を互いに向け合うと、「始め」の声がかかった。

 立ち上がった。

 相手は気合いが入っていた。準々決勝まで勝ち進んできたのだから、強いのには違いなかった。しかし、僕は負ける気がしなかった。

 相手は、自分の試合スタイルを貫いた。無反動に対する警戒よりも、自分の剣道をすることにしたのだ。

 僕はそういう奴が好きだった。