小説「僕が、剣道ですか? 3」

二十六
 家に帰ると、きくが玄関で待っていた。
「お帰りなさいませ」
「うん」
「沙由理さんとは、楽しかったですか」
 それか、と僕は思った。
「沙由理さんは、待っていてくれたんですよね」
「ああ」
「それからデートをしたんですね」
「ああ」と言いながら、きくとはカラオケ店には行けないことを思った。きくに歌える曲がなかった。僕が歌うだけでもいいけれど、歌を知らないきくにはつまらないだろう。
 目を上げると、きくが泣いていた。
「きくは京介様が他の人とデートすると悲しいです」と言った。そして二階に上がっていった。リビングに入って行くのが分かった。夕食を作る手伝いをするのだろう。
 僕は三階の自分の部屋に入った。
 ショルダーバッグを下ろし、オーバーコートを脱ぐと、ききょうを見た。眠っていた。ほっぺたをつつこうとしたが手を洗っていないことに気付くと止めた。
 机に座ると、****カメラで買ってきた双眼鏡を袋から取り出した。部屋の中をいろいろ倍率を変えて見た。結構、よく見えるものだと思った。コンパクトだったから、革ジャンの右ポケットに入れてみた。入ったが、ジッパーを閉めると窮屈だった。仕方なく、内側の左ポケットに入れた。
 革ジャンを脱ぎ、長袖シャツとジーパンを脱ぐと、スウェットの上下に着替えた。
 それからベッドに倒れ込んだ。
 沙由理の唇の感触が今でも残っていた。拒むことができなかった。甘ったるいキスだった。
「ご飯よ」と言う母の声が階下から聞こえてきた。
 僕は部屋から出た。
 親父は酒を飲んでいた。
 今日はチキンのソテーだった。昼食と食材が被ったが、塩で焼いただけの鶏肉も旨かった。
 これもきくには初めてだった。卵もめったに食べられない時代のことだ。鶏肉なんて贅沢過ぎて、きくの口には入らなかったにちがいなかった。
 もちろん、きくは美味しいと言って食べた。
 親父は「明日は、忘年会だから夕食はいらない」と言った。
 母は「わかったわ」と答えた。
 もう忘年会の頃か、と僕は思った。思えば、あと三日で年を越す。
「明日、買出しに行こうか」と母に言った。
「そうしてくれると助かるわ。後で買ってきてもらう物書き出すわ」
明治通り沿いにあるスーパーに行くね。足りないものはデパートで買うよ」
「わかったわ」

 次の日、午前八時に起きた。行こうとしていたスーパーは午前九時開店だったから、朝食を済ませて着替えて、歩いて行くのには良い時間だ、と思った。
 朝食はトーストしたパンにコーヒーとサラダを食べた。きくは、ご飯と味噌汁を食べていた。
 母が「はい」と言って、買物のリストと二万円を渡してくれた。
「足りなかったら、後で請求してね」と言った。
「分かった」
 きくを見た。すると、きくが「きくも買物に行っても良いですか」と訊いた。
 きくに年末の買い出し風景を見せるのもいいものかな、と思っていたところだったので、「いいよ」と答えた。
「でも、ききょうは連れて行けないよ。凄い人混みだからね」
「わかりました。授乳したら、行きますね」
「そうだな。後は、お母さんに任せるよ」
「わかったわ」と母が言った。

 僕は自分の部屋に入ると、普通の服にするか戦闘モードの服にするか悩んだ。さすがに、買出しに争い事になるとは思えなかったが、黒金組とももめているので、戦闘モードの服を着ていくことにした。結局、いつも戦闘服を選んでいることになってしまう。こういう事態になっているから、仕方ないのかも知れないと諦めるほかはなかった。
 きくには、パンツルックで行くようにと言った。人混みの中をスカートを穿いていたら、痴漢に遭うに決まっている、と僕は思い込んでいる。
 きくが着替えると、僕はいつものように安全靴を履いて、リバーシブルのオーバーコートを来て、ショルダーバッグを提げて出かけた。
 双眼鏡が革ジャンの左胸の内ポケットに入っているのが、ひとつ物が増えたかな、といったところだった。
 午前九時を少し過ぎた頃にスーパーに着いたが、スーパーはすでに店の外にまで、人があふれていた。今日は安売りをするといって宣伝をしていたから、人が集まってきていた。僕たちもその仲間だった。
 なかなか、スーパーの中に入れなかった。少しずつ動いていく感じだった。僕はきくとはぐれないようにするのに必死だった。こんな状況ではぐれたら、小柄なきくを見つけ出すのは、難しいと思った。
 野菜類は後にして、栗きんとんとか黒豆とか、練り物を先に買おうとした。その時、周りに妙な奴らに囲まれているのに気付いた。段々、こっちに近付いてきた。すぐ後ろの奴がきくの腕を掴んでいた。
「俺たちと一緒に来な」と後ろの奴が言った。
「分かった」と言うしかなかった。
 彼らは僕らを取り囲むように移動した。スーパーからは出た。
 きくの腕を掴んでいる奴の手を掴んで離させた。きくは僕にしがみついた。
 周りを取り囲まれていた。彼らが歩いて行く方向に歩くしかなかった。
 僕は歩きながら、皮手袋を脱いで、リバーシブルのオーバーコートのポケットに入れ、革ジャンのポケットジッパーを開けて、ナックルダスターを取り出した。相手に気付かれないように、ナックルダスターを嵌めて、その上に皮手袋をした。
 いつのまにか黒金町に入っていた。集団は二十人以上いた。その集団に囲まれたまま、空き地に入った。

 ここで事を起こすつもりなのだろう。