小説「僕が、剣道ですか? 3」

二十一

 火曜日は午前九時に起きた。朝食は食べなかった。食欲がなかったのだ。

 きくが「元気がないんですか」と訊いてくれたが、そういうわけじゃなかった。

「ききょうはどうしている」と訊くと「眠っています」と答えた。

 予防接種をした時、「何か変な症状が出たら、すぐに連絡してください」と医者から言われていたのが、頭に残っていたのだ。

 午前十時になったので、スーパーに買物に行こうと思った。母に「何か買ってきて欲しいものある」って訊いたら、「昨日、お父さんが、魚が食べたいと言っていたでしょう。何か美味しそうな魚があったら買ってきて」と言われた。

 ききょうを起こして、きくと近くのスーパーに行った。こうしてスーパーで買い物をするのもきくには珍しいだろうと思った、江戸時代では、こういう買い方はできないから。

 鮮魚コーナーに行って、何かいいものがあるか見てみた。きくには見たこともない魚でいっぱいだったろう。白鶴藩は山に囲まれた藩だから、魚といっても川魚が多く、海でとれた物は干物になっていた。切り身で売られている魚を見るのは、初めてだろう。

 銀ダラの切り身を四つと、サンマ四本をビニール袋に入れてもらい、籠に入れた。

 大根おろしがいるだろうから、大根も籠に入れた。後は、お菓子を幾つか籠に入れた。

 レジで籠を出し精算をして、スーパーを出た。

 家に帰って買ってきた物を母に見せると、「銀ダラは煮付けにするわね。サンマは塩焼きしたら、美味しそう」と言った。母に任せたら、旨いものを作ってくれるのに違いなかった。

「きくにも作り方を教えてやってね」と僕は言った。

 きくは嬉しそうに「わたしも作り方を知りたいです」と言った。

 そうしていると、黒金高校や黒金不動産のことは忘れそうになった。いや、忘れたかった。

 お昼は、母が手抜きをして、即席ラーメンになった。僕は塩ラーメンを食べた。きくはごく普通の醤油ラーメンを食べた。即席ラーメンなんかもきくは食べたことがなく、最初は変な蕎麦だなと思ったそうだ。しかし、食べているうちに「これ、美味しいです」と言った。きくには、現代の食べ物、すべてが美味しく感じるようだった。翻って考えると、僕が江戸時代にタイムスリップしていた時には、随分とまずいものを食べていたんだなぁと思う。ただ、きくの作ってくれたおにぎりは美味しかった。

 午後一時過ぎに、僕の携帯に沙由理から電話がかかってきた。出ると、「遠藤幸子といいます。沙由理の母です」と言った。

「鏡京介です」

「今日、お時間を頂けますか」

「いいですけれど、何時ですか」

「午後三時に****ホテルの一階ロビーでは、どうでしょうか」と言った。

「構いません」と答えた後で「ところで、お嬢さんの具合はどうですか」と訊いた。

「まだ、怖がっていますが、少し元気になりました」と言った。

「そうですか。それは良かった。じゃあ、午後三時に****ホテルの一階ロビーですね。分かりました、伺います」

 そう言うと携帯は切れた。

 沙由理の母親が、何の用なのだろうと思った。

 とにかく会ってみないことには分からなかったので、それ以上は考えることは止めにした。

 ****ホテルのロビーで会うのであれば、革ジャンにジーパンはないよなと思い、紺色のストライプが斜めに入ったYシャツにダークグレーのスラックスを穿き、濃紺のジャケットを着た。高校に着て行くために買った紺色のコートを上に着た。

 財布と携帯と、念のためにナックルダスターを持って、皮の手袋をし、普通の黒い靴を履いた。

 少し早めに出た。新宿までは高田馬場からJRで行った。新宿駅から****ホテルまでは少し距離があったが、普通は歩く。僕は都庁の方面に向かって歩き出した。

 午後三時少し前に、****ホテルの一階ロビーに着いた。ソファに沙由理が座っているのが見えた。その隣に居るのが、幸子という母親なのだろう。

 そばに行くと二人は立ち上がって、頭を下げた。

 僕は「鏡京介です」と言って、やはり頭を下げた。

 沙由理の母が、「ここでは何ですから、カフェへ行きませんか」と言った。

「ええ、いいですよ」と答えた。

 ホテル内のカフェの奥のテーブルに座った。周りには人はいなかった。

 ボーイが注文を取りに来ると、僕は「ブレンドを」と言った。二人はアールグレイを注文した。

 ボーイが去ると、すぐに沙由理の母が頭を下げて、「この度は娘がお世話になり、大変申し訳ありませんでした。そして、ありがとうございました」と言った。

 何かの包み紙を出したので、「それは」と固辞しようとしたら「これはあなたに沙由理が着せて頂いたコートです。クリーニングに出して、今日の午前中に仕上がったものですから、お受け取りください」と言った。僕は自分が固辞したことを恥ずかしく思った。

「そして、これはお洋服の代金です」と言って、白い封筒を出した。

「でも、クリーニングして返してもらいましたから、受け取れません」

「汚れが全部綺麗に落ちたかはわからないので、お収めください」と言った。

「大丈夫ですよ。服は着ているうちに汚れるもんですから、仮に汚れが残っていても構いませんから」と言うと、「汚れが残っていても平気ですか」と訊かれた。

 急に沙由理の母の声のトーンが変わった。

「はい」と答えると、「汚した方は気になるんですよ」と言った。

「はあ、そういうもんですか」と言うしかなかった。

「そうです。ですから、お収めください」と言った。少し強い口調だった。

 突き返すことは許さない、という感じが滲み出ていた。

「分かりました。では、ありがたく頂いておきます」

 テーブルに載った封筒を手にすると、結構分厚かった。十万円よりは多いことは確かだった。内ポケットに入れようとして躊躇っていると、沙由理の母が目で「早くしまって」と言っているように感じた。

 結局、僕は金額を確かめないまま、ポケットに封筒をしまった。

「どう、少しは元気になった」と僕は沙由理に訊いた。沙由理はちらっと母の方を見てから、頷いた。

「警察からは事情聴取を受けましたか」と沙由理の母から言われた。

「ええ、現場にいた時にいくつか質問されました」

「どんな風に答えましたか」

「新宿を歩いている時に、沙由理さんが連れ去られたので、知っていそうな人を探して、ある所に連れ込まれたんじゃないかって話を聞いたので、そこに行ったら、ひどいことをされていたので助け出したと言いました」

 僕が警察に話した内容とは、少し違っていたが、この際、細かなことは関係ないだろうと思った。

「そうですか。もし、また警察に何か訊かれても同じように話してくださいね」

「ええ、ただ、事実を話しているだけですから、同じように答えます」

「今度のことについて、警察以外に話した人はいますか」

「いいえ、警察だけです」

「ご両親にも」

「あっ、話すのを忘れていました」と僕は言った。これは事実だった。

「では話さないで頂けますか」

「特に話すことはないと思います」と僕は言ったが、これも本心だった。むやみに両親やきくに心配をかけさせたくはなかったからだ。

「思いますではなく、話すことはないと言って頂けますか」

 僕ははっきりと頷いた。

「他の人にもしゃべらないで頂けますか」

「もちろんです。それは保証します」

「沙由理がどんな目にあったかは知っていますよね」

「はい」

「で、沙由理とは、今後、どうするつもりですか」

「特に考えてはいませんでしたけれど」

「そうですか」

 僕が黙っていると、「できれば、今後、沙由理と付き合うことは控えてもらえますか」と言った。

「沙由理さんがそうしたいと思っているなら、僕に異存はありません」と答えた。

 するとそれまで黙っていた沙由理が「京介さん、わたしは……」と言い出した。すると、すぐに母親が「あなたは黙っていなさい」と言った。

 僕は沙由理の母親に向かって言った。

「沙由理さんの気持ち次第だと思いますよ。今回のことをなかったことにしたいと思うのなら、僕と付き合うのは止めた方がいいでしょう。でも、あったことを受け入れて、前を向いて歩いて行くなら、沙由理さんの気持ちを尊重した方がいいと思います」

 沙由理の母は「あなたは見かけと違って、芯がしっかりした人なんですね」と言った。

「でも、沙由理とは付き合わないで頂きたい」

「僕は、最初から沙由理さんがそうしたいと思っているなら、僕に異存はありませんと言っています。そのことに何の変わりもありません。仮にですが、僕と付き合っても、沙由理さんにはご迷惑がかかるかも知れません。沙由理さんを助け出した場所が場所だけに、彼らに僕がいい感情を持たれていないことは確かでしょう。だから、僕と付き合うとしたら、それなりの覚悟がなければできないと思います。また、同じような目にあわないとも限らない。それを沙由理さんに理解して欲しいと思います」

 そう言うと、沙由理が「ごめんなさいね、こんなことになるなんて思ってもいなかったの」と言った。

「あなたは黙っていなさい」と沙由理の母は言ったが、僕は沙由理に「分かっている」と言った。その分かっているの内容は、沙由理自身がこんな目にあうとは予想していなかっただろうということだった。おそらく、クリスマス・イブにかこつけて、僕を誘い出すように誰かに言われたのだろう。多分それだけだ。僕を誘い出すように誰かに言われたのだから、その後、どうなるのかは多少、想像は働いたとは思うが、それほどひどいことになるとは思ってもみなかっただろう。沙由理にしてみれば、軽いノリでやってしまった、ということに近いに違いない。

「とにかく、沙由理とは付き合わないでください」と沙由理の母は念を押した。

「僕から連絡を取ることはしません。これは誓います。後は沙由理さんの気持ち次第なので、そこは親子で話してください」

 僕はそう言って、コーヒーカップに手を伸ばした。

 沙由理親子との会話は、これで終わった。

 別れの挨拶をした時に、ちらっと沙由理が僕を見た。

「行くわよ」と母親に言われて、その後を追った。レシートは沙由理の母親が持って行った。

 封筒の中身を見た。三十万円が入っていた。沙由理との手切れ金のつもりだろう。

 沙由理も親に安く見積もられているもんだな、と思ったが、僕はゆっくりとコーヒーを飲み終えると、立ち上がった。