小説「僕が、剣道ですか? 5」

四十
 道は縦横に走り、そこら中に店が出ていた。
 通り過ぎる人も旅姿ではなく、町人が多くなってきた。若い娘は綺麗な着物を着ていた。
 風車はそれらの女性に見とれていた。
「私たちも早めに宿をとり、旅の垢を落としましょうよ」と僕が言うと、「いいですね」と風車も言った。
「でも、いっぱい宿がありますね。どこにしますか」
 あたりを見回した。人が多かった。ぶつかって行く人もいた。今まで、歩いてきて、こんなことはなかった。それだけ人が大勢いたのだ。
「あそこにしましょうか」と僕は、大きな看板の出ているところを指した。
「いいですね。そこにしましょう」と風車も言った。
 そこは格式のある宿のようだった。他よりも高かった。個室は一人一泊二食付きで八百文、相部屋は四百文だった。
「風呂はいつでも入れますよ」と番頭に言われた。
 部屋に通された。角部屋のいい部屋だった。風車が自分が背負ってきた風呂敷包みを渡しに来た。
「ありがとうございます」と言って受け取った。部屋に戻り、風呂敷包みを隅に置いた。

 廊下に出て、下を見ると、通りを歩いて行く人が沢山見えた。
 左側は庭になっていた。
 隣にきくが来た。
「きく、ようやく江戸に来たな」と言った。
「ええ、久しぶりですわ」
「そうだな」
「でも、現代というところの方が人が多かった気がします」と言った。
「それはそうだ。人口が違うもの」と言うと、「人口って何ですか」と訊いてきた。
「人の数のことだよ」と言った。
 そうしているうちに、風車が相部屋から出て来て、「風呂にでも行きませんか」と言うので、「そうですね」と応えた。
 僕はショルダーバッグの中から折たたみナイフを取り出し、バスタオルと新しいトランクスを持って、廊下に出た。そして、風車と一緒に階段を下りていった。

 手ぬぐいと浴衣の入った籠を取ると、脱衣所で着物を脱いだ。裸になると、僕は古いトランクスと折たたみナイフと手ぬぐいを持って、風呂場に向かった。
 風呂場でトランクスを洗い、それから折たたみナイフで髭を剃った。そして、手ぬぐいで躰を洗うと、頭も洗った。
 それから湯に浸かった。
 いい気分だった。
「明日は浅草に行きましょうね」と風車が言った。
「そうですね」と答えた。

 湯から出ると夕餉の支度がしてあった。
 きすの天ぷらが付いていた。
 きくに「明日、浅草に行くぞ」と言うと、「楽しみです」と応えた。
 きすの天ぷらは美味しかった。つゆに付けて食べると、身がふっくらとしていて、なんとも言えぬ味だった。
 里芋の煮物も美味しかった。 

 夕餉の後に、碁を一局だけ打った。僕が五目負けた。
 それから眠りに就いた。

 翌朝、朝餉をとると、早速宿を後にした。
 荷物を持った僕らは、田舎者丸出しだった。粋な着流しの侍や、威勢のいい魚屋が脇を通り過ぎていった。女性は綺麗な着物を着ていた。
 僕は、きくにも綺麗な着物を買ってやりたくなった。きくは旅の格好そのままだったからだ。
 風車は人に道を訊いて、「あっちが浅草らしいですよ」と言ってきた。
「そうですか」
 上野を通り過ぎて、浅草に向かった。
 通りは人でいっぱいだった。
 進んで行くのも大変だった。
 そのうち、雷門が見えてきた。
 風車が「あそこですね」と指さした。
 僕は「ええ」と言った。
 きくは「本当に浅草に来たんですね」と言った。感慨もひとしおだったろう。
 それからが大変だった。
 人の山をかき分けるように、赤い雷門に迫っていった。
 そして、ついにその下に着いた。
 赤く大きな提灯が門の真ん中にぶら下がっていた。
 そこを通ると、仲店が続いていた。
「この前来た時とは違いますね」ときくが囁くように言った。
「それはそうだ。時代が違うもの」と僕は言った。
「でも、凄く賑やかですね」
「そうだな」
 しばらく行くと、風車が「俺が売られている」と言った。
 見ると、おもちゃ屋でその店頭に風車が沢山並んでいた。
「行きましょう」と僕は風車に言った。
 風車は頷いた。
「何種類もの、風車殿がおられるな」と僕が言うと、風車が赤い風車を買った。
 そして、ききょうの前でそれを吹いて見せた。すると、風車はくるくると回った。ききょうは喜んで笑った。また、吹いた。また、ききょうは笑った。
「良かった。喜んでくれて」と風車が言った。
「これはききょうちゃんにあげますからね」と言って、ききょうの手に持たせようとした。ききょうは一瞬持ったが、すぐ離してしまった。落ちた風車を僕は拾って、ききょうの背中に差した。
 風車はききょうの背中で回っていた。

 仲店の中に饅頭屋があったので、饅頭を買って食べた。
 ききょうにもちぎって食べさせた。
 そして、仲店を抜けると、浅草寺に出た。行列に並んで、賽銭箱の前に行った。
 賽銭を投げて、鈴を鳴らした。
 僕は無事子が生まれてくることを願った。
 きくも願っていた。
 風車も何か願った。いいお嫁さんが見つかるようにでも願っていたのではないか、と僕は思った。
 浅草寺を出ると、今度は日本橋に向かった。

 やがて、日本橋に着いた。
「ここがすべての街道の出発点か」と風車が欄干に手をかけて言った。
「そうですね。ここが出発点ですね」と僕も言った。
「ところで、鏡京介殿は江戸に来て、何をなさるつもりですか」と風車が訊いた。
 大目付を討つという目的はあるが、当面はきくの出産が問題だった。そのほかには、これといって、江戸に来る理由は思いつかなかった。
「さて、どうしましょうか」と言った。
「風車殿は何か目的でもあったのですか」と訊いた。
「いや、拙者も一度は江戸を見てみたいと思っただけですから、これからどうするかは決めていません」と応えた。
「どこか行く当てでもあるのでしょう」と僕が訊くと、「いやぁ、それがないんです」と答えた。
「じゃあ、これからどうするんですか」と訊いた。すると、風車は「鏡殿はどうされるつもりですか」と訊き返してきた。
「どこか家を借りて住むつもりです」と答えた。
 きくの方を見ると、きくも頷いた。
「なら、拙者はその隣に住みます」と風車は言った。
「本気ですか」と僕が言うと、「本気です」と風車は答えた。
「えっ、そんな」
                                                            了