四十九
今日は、会社に出る日だった。介護タクシーを呼んで出社した。
慣れないので、印刷した地図を運転手に見せ、道順を辿りながら会社に行くと、移転した会社は見違えるようだった。
真理子は高瀬を見ていて、朝から落ち着かないようだった。これからこの会社の社長として、新たな領域に足を踏み込むのだから、当然だった。
「大丈夫よ、わたしがついているから」
真理子はそう高瀬を励ました。
「そうだな」
「介護用の車を買わなくちゃね」と真理子が言うと、「そうだな」と高瀬は、心ここにあらずのような答え方をした。
真理子が車椅子を押して、会社に入ると、女子社員から花束を渡され、社長室まで色紙で作った花吹雪が舞った。
車椅子を押して中を進んでいくと「退院、おめでとうございます」と誰彼となく声がかかった。それに対して、高瀬は「ありがとう」と答えた後、床を指さして「後で掃除しとけよ」と冗談を言った。社員はどっと笑った。
真理子はホッとした。高瀬に、冗談が言える余裕があったからだ。
会社の中央あたりにマイクが設けられていた。高瀬は社員たちによって、その前に連れていかれた。
誰かがマイクを高瀬に渡した。
どんなことを話すのだろう。
真理子は、車椅子に座っている高瀬の隣で、心配だった。
「今日はありがとう。こんなに歓迎され、そしてみんなの元気な顔が見られてとても嬉しかった」
高瀬の第一声は、そうだった。
「よっ、社長」
「ありがとう。私が事故に遭って、不在の間も、みんなで会社をもり立ててくれたことを心から感謝する。ところで、今の私は正直言ってみんなの顔を忘れている。これは事故による記憶障害だ。だから、もし、私が誰かに対して覚えていなくても許してもらいたい。今度の事故で私は九死に一生を得た。この五ヶ月間病院で暮らし、長い時間、考える機会を持った。私の声に象徴されるように、私の人生観も変わった。みんなが私から受ける印象がこれまでと違っていたとしたら、それは私の人生観が変わったことによるものだと思ってもらいたい。私は変わった。いや変わらなければならなかったのかも知れない、たとえ、それが事故によるものだとしても。どうせ変わるのなら、良い方向に変わりたいものだと思っている。さて、社長がいないにもかかわらず、トミーワープロをトップシェアまで引き上げてくれ、そして会社移転までしてくれて、本当に感謝している。みんなが苦労したことは分かっているつもりだ。今度のボーナスを楽しみにしていてほしい」
淀みなく、高瀬は話していた。拍手と歓声が上がる中、真理子はホッとした。
「でも、過剰な期待はなしでお願いする。ほんの心づもり程度だから」
真理子は、ブーイングと笑いが起こった中にいる高瀬が信じられなかった。高瀬は会社に溶け込んでいた。驚くべきことだった。
「私も無事に退院でき、こうして現場に復帰することができた。これからは一層、このトミーソフト株式会社を強く大きな会社に育てていきたいと思う。みんなの力を借りて、きっと実現しよう。私の退院の挨拶はこれで終わりにする。最後に、もう一度みんなに感謝する。ありがとう」
高瀬が、歓声の中、マイクから離れると、真理子は近寄っていき、高瀬の耳元で「いい挨拶だったわよ」と言った。真理子は、本当にそう思ったのだった。これで順調に滑り出したのがわかって安心もした。
高瀬は、挨拶に来る高木以下の部下にも、それぞれに握手を交わし「君たちにも苦労をかけたね」と労いの言葉をかけていた。そんな中で、高木には「後で来てくれ」と言った。
社長室に入りドアを閉めた。高瀬が深く溜息をついたのがわかった。高瀬は一山を乗り越えたのだ。社長室に入って落ち着けたのだろう。真理子も、ようやく落ち着いた気分になった。
高瀬は、真理子に車椅子を押してもらいながら、社長室を一回りした。高瀬は、初めて見る社長室を物珍しそうに見て回った。
社長室のデスクに高瀬を連れて行くと、高瀬は車椅子から立ち上がると、真理子の肩を借りて、社長室の椅子に座った。
真理子が「どう、新しい会社は」と訊くと、高瀬は満足そうに「いいじゃないか」と答えた。
その時、ノックがした。入ってきたのは高木だった。
高瀬が「早速で済まないが、十一時に会議を開く。各部の部長を会議室に集めてくれ。これまでの報告と今後の方針を伝えたい」と言った。
高木は「わかりました。早速、皆に伝えます」と応えて、出ていった。
「もう仕事」と真理子が言った。
高瀬は「会社に来たんだ。仕事する以外に何をするって言うんだ」と言うと、「それもそうね」と真理子は応えた。
午前十一時になった。
真理子は不安だった、富岡となった高瀬がどう会議を乗り切るのか。
会議室にいた真理子と高瀬のもとに、経理部の高木、営業部の田中、開発部の内山、総務部の長谷川、販売宣伝部の松嶋、秘書室&広報室の中山が続々と集まってきた。
「私が出社できない間、会社を切り盛りしてきてくれた皆さんには感謝する。ありがとう」
「そんな……」
「とんでもない」
「当然のことをしたまでですから」
「ありがとう。早速で悪いが、会社の状況を把握しておきたい。経理から順番に現状を報告してもらいたい」
高瀬は堂々としていた、まるで富岡のように。
経理部からは会社の業績について、トミーワープロが売れたこともあり、全体で売上が前年比三倍になっていると言った。営業からは、トミーワープロの注文に発注が追いつけていないという悲鳴のような声が上がった。このままいけば、最終的には五万ロットを超えるという見通しを営業が言った時には、全員から驚嘆の声が上がった。
その後も、開発部、総務部、販売宣伝部からの報告があった。これを高瀬は見事にこなしていった。
秘書室&広報室から、毎年行う新年会を、会社移転を祝う会と社長の快気祝いを一緒にしてはどうかという提案があった。みんな、それはいいと言う声が上がった。
中山が「どこかホテルの広間を借りて盛大にしましょう」と言うと、高瀬は「任せる」とだけ淡々と答えた。
高瀬が、今後の方針について伝えると、会議は午後一時に終わった。
会議室を出る時、車椅子を押しながら、高瀬の耳元で「あなた、凄いわね」と言った。初めて来る会社で、初めて会う部長たちを前に、堂々としていた高瀬を見ていると、頼もしく感じた。
頼もしいのは、あっちだけじゃないのね、と真理子は一人薄く笑った。