四十二
次の日、真理子は午前八時半に病院に行った。
「今日はシャワーの日よね」
「ああ」
「肌着、持ってきたわ。忘れるといけないからもう一枚買ってきたわ。それにバスタオルとフェイスタオルも多めに持ってきた。クローゼットに入れておくから看護師さんに言ってね」
「分かった」
「昨日、メモしてくれたソフト、忘れないようにするからね」
「頼むよ」
「夕食が終わった頃、来るわ」
「待ってる」
高瀬は、病室を出ていこうとする真理子の手を掴んでキスをした。
会社に着くと、午前十時から始まる臨時取締役会に備えた。
十時少し前から、各部の部長たちが続々と社長室に集まってきた。広いと思っていた社長室でも八人も集まると、狭く感じた。八人は社長デスクの前に立っていた。真理子だけが社長椅子に座っていた。
午前十時になった。専務の高木が「これより、臨時取締役会を開きます」と言った。
真理子が立ち上がって、「社長代理の富岡です」と言った後に、臨時取締役会の議題でである会社移転の件について話した。真理子が話し終えると、高木が「異議がある方は挙手をお願いします」と言った。誰も挙手をする者はいなかった。
「それでは会社移転の件については、異議なしということで議決されたものとします。会社移転の日まで残り少ないですが、よろしくお願いします。これで臨時取締役会を閉会します」
各部長が社長室から出ていこうとする時に、開発部長の内山を真理子は呼び止めた。
「何でしょう」と言う内山に、昨日、高瀬から渡されたメモ用紙を見せた。
「これらのソフト、うちの会社にある」と訊いた。
ホッとしたような表情をした内山は、そのメモを見た。
「多分、全部あると思います。若い者に用意させます」
「そうしてくれると助かるわ」
内山が出ていった後で、茶碗を下げに来た滝川が「僭越ですが、社長代理も部署を見回られてきたらどうでしょう」と言った。「今、会社がどうなっているのか、わかると思いますよ」と続けた。その言い方には棘があったが、滝川の言うことにも一理があった。
滝川には何も言わなかったが、滝川が出ていくと社長椅子から立ち上がった。
臨時取締役会が終わって昂揚感は残っていたものの、このまま社長室の椅子に座っていても、退屈なばかりなのは確かだった。それなら各部署を視察するのも悪くはない、今の会社を見て回るのもこれが最後になるのかも知れないのだから、と思ったのだった。
真理子は午後六時頃まで、会社にいた。各部署を回ると、いろいろなことが耳に飛び込んできた。思いのほか、時間がかかったのだ。
社長室に戻ると机の上には、大きな手提げ袋が二つ置いてあった。その側に、今朝、渡したメモが置かれていた。書き出されていたソフトの横にチェックマークがついていて、『すべて用意できました。内山』と書かれていた。
それを真理子が一人で車に運び病室に持ってくるのには、一苦労した。
「大変だったんだから」と言う真理子に、「ありがとう、これで助かる」と言いながら高瀬はキスをした。
「今日はどうだった」
「大変だったわ。臨時取締役会を開いて、会社移転の件を決議したわ。その後、各部署を回ってみたの」
「そう」
「増産するのも大変だけれど、修正プログラムの方も作らなければならないから、工場ではフル回転しているようだけれど追いつかないみたい」
「結構なことじゃないか」
「それはそれで大変なのよ。それに会社の移転もするんだから」
「そうだな。それで、真理子、お前はどうしているんだ」
「臨時取締役会の後は、あっちこっちの部署を回って、伝書鳩になっていたわ」
「そうか。ちゃんとやっているんだ」
「何よ、その言い方」
「この前は、会社に居場所がないみたいなこと言ってたじゃないか」
「それは変わらないわよ。わたし、ソフトのこと、何にもわからないんだもの」
「別にソフトのことなんか分かる必要はないよ。決断ができればいいんだ」
「臨時取締役会のこと」
「いいや、臨時取締役会なんて、ただの儀式みたいなものだろう。そうじゃあなくて、トミーワープロのことだよ。俺がいなくなって、会社はどうしようか、迷っただろうね」
「…………」
「お前なんだろ、ゴーサイン出したの」
「誰かから聞いたの」
高瀬はそうとは言わなかったが、日曜日に高木から聞いたのに違いなかった。
「いいや、見ていればわかるよ」
「そう」
「ああ、お前には決断力がある。こうと決めたら、きっとやるタイプだ」
高瀬がそう言うと、真理子は高瀬の顔をまじまじと見た。何か知っているの、と問いたくなった。
「なんか、俺の顔についているのか」
「いいえ、でも何か……」と言いながらも、真理子は探るような目で高瀬を見た。
「別に以前のことを思い出したわけじゃないからね」
「そんなこと……」あるわけがないじゃない、別人なんだから、と真理子は心の中で思った。
「よくやってくれているなぁ、と思っているだけさ」と高瀬が言った後、「会社移転したら、次のソフトのこと考えなくちゃならないだろ」と続けた。
「そうね。もう、話は出ているけれどわたしにはついていけなくて……」
開発部を回った時に、清宮と西野が「次のソフトを考えなくちゃ、いけないな。今度はカード型データベースソフトらしいけれど、社長案件だから、今はストップかかっているしな」と言っていたのを思い出した。
「次は、カード型データベースソフトだ」
「ああ、そんなこと言ってた。だけど、あなたがこんなふうだからストップしているって」
「そうだね。カード型データベースソフトは俺のアイデアだからね。俺がいなければ進められないだろうね」
「それだったら、早く治して」
「それは医者に言ってくれよ」
「まぁ」と真理子は言いながら軽く、高瀬の肩を叩いた。
「ちょっと見せてくれ」
高瀬は真理子が持ってきた手提げ袋を示した。真理子はそれをベッドの上に置いた。
高瀬は中身を見ていた。そして「TS-CDB0.53-1」「TS-CDB0.53-2」というラベルが貼られたフロッピーディスクを取り出した。
「これだ」
「何、それ」
「さっき言っていたカード型データベースソフトの試作品」
「そうなの」
「ああ」と言いながら、高瀬は社員名簿を見ていた。
「内山に言って、データベースに詳しい者を病室に寄こしてくれ。午後はリハビリがあるから午前中がいい。会社に行ったら、すぐ来るように伝えて欲しい」
「急な話ね」
「こういうことは思いついた時にするのがいい。そのうち、引越しなどで忙しくなるから、紛れてしまうのが嫌なんだ。それに俺も忘れないうちに伝えたいし……」
「わかったわ」と言って、真理子は立ち上がった。当然、高瀬がキスしてくるものと思って待っていたが、高瀬の方は、「TS-CDB0.53-1」「TS-CDB0.53-2」というラベルが貼られたフロッピーディスクを見ていた。
真理子は「じゃあね」と言って病室を出た。