小説「真理の微笑 真理子編」

四十四
 木曜日、真理子は午前八時に起きた。今日は設計士の人が来る予定だった。
 急いで、朝食を済ませると、家の掃除をした。
 午前九時に設計士の人たちが来た。四人だった。彼らは二人ずつがペアを組んで、改修する箇所の細かな数字を計測しては、設計図に書き込んでいった。
 真理子は彼らの邪魔にならないように、少し離れた所から見ているしかなかった。
 設計士の人たちが帰っていったのは、午後六時近かった。工事は来週の月曜日から行われると言っていった。
 彼らが帰ると、真理子は化粧をして、病院に向かった。
 高瀬とキスをした後、今日、設計士が来た話をした。帰りがけに、再びキスをした。
 真理子は、ディープキスをしたのにもかかわらず、今日の高瀬のキスが何故か淡泊に感じた。

 金曜日に、真理子が会社に行くといつにも増して、ごった返していた。来週の土日が会社移転の日だったからだ。
 真理子は早々に社長室に退散した。
 滝川がお茶を持ってきたので、「この部屋はどうすればいいの」と訊くと、「総務部の人にお訊きになったらどうでしょう」と返ってきた。
 総務部に顔を出し、部長の長谷川に声をかけた。
「忙しいところ、ごめんなさいね。社長室の引越しはどうなっているのか、訊きたかったものだから」と言うと「社長室は、会社移転の前日、つまり来週の金曜日の午後、我々、総務部全員で荷造りなどをします」と長谷川は答えた。
「電話サポートの方はどうしたの。会議室には誰もいないようだし」と訊くと、「ああ、昨日から一時、中止しています。会社移転が終わった翌々日から再開します。つまり、二十六日からですね」と言った。
「そうなのね。わかったわ」と言って、真理子は総務部を出た。

 土曜日は会社移転の日だった。会社に来ても居場所がなさそうだったから、真理子は休むことにした。それを滝川に伝えると、真理子は早退した。
 そして、一週間が経ち、いよいよ会社移転の日が来た。
 病院に寄った後、滝川には休むとは言ったものの気になったので、午前九時に会社に行くと、もう引越し作業は始まっていた。
 土曜日にもかかわらず、社員全員が汚れてもいい服装をして来ていて、引越し作業をしていた。その中でスーツ姿の真理子は浮き上がって見えた。
 真理子は車に乗ると、煙草を取り出し吸った。
 一服すると、真理子は車を出した。

 日曜日も引越し作業は続いているはずだったが、真理子は会社には行かなかった。
 そして月曜日から家の改修工事が始まった。工事は金曜日まで続く予定だった。家の改修工事があることを会社に伝えていなかったことを思い出した真理子は、滝川にそのことを伝え、高木を呼び出してもらった。高木にも今週中は会社に行けないことを伝えた。

 十月最初の月曜日だった。会社を移転してから、最初の出社だった。
 新しい会社は見違えるようだった。滝川に社長室に案内されて椅子に座ると、今まで使っていたのと同じ椅子だったが、まるで新調したように思えた。社長室の内装が変わったためでもあるのだろう。
 真理子は新しくなった社内を見て回った。
 高木が現れて「どうです」と訊くので「いいわね」と真理子は答えた。
 午前中に新しい会社を一通り見て回った真理子は、この興奮を高瀬に早く伝えたくて、午後になると会社を早退して病院に向かった。
 病室に入った真理子はキスするのももどかしく、新しくなった会社のことを、高瀬に話した。
 そうしているうちに看護師が入ってきて、主治医に呼ばれていると言われた。
 看護師が持ってきた車椅子に高瀬が乗ると、真理子はそれを押して診察室に向かった。
 主治医の話は、今までの結果報告のようなものだった。
「後二ヶ月ほどで退院できますよ」と言う主治医の言葉に、真理子は高瀬の顔を見た。高瀬が喜んでいるのがわかった。
「一時は相当、危なかったですが、よくここまで回復されましたね」
 主治医はパソコンを操作してプリントアウトした検査結果の数値の表を二人に見せた。月日別に数値が並んでいた。内臓、特に肝臓と腎臓が回復してきているのが、表を見れば一目瞭然だった。
 腎臓は、最初は透析をしなければならないかと考えたそうだが、血液検査の数値がそこまで悪くなくて、何とか透析しないでも良くなってきていると言った。肝臓は、その数値は最初はひどく悪かったようだ。しかし、今はまだ数値的には高いが、だんだん低くなっているので安心していいということだった。
 膝は現状以上には良くはならないので、自力歩行はできないと言われた。しかし、松葉杖を使えば、少しの距離なら移動できるだろうと言われた。基本的には、車椅子を使うことになるが、手は今よりももっと動かせるようになるので、不便ではあるが一応何処にでも行けるようになると言われた。肘が良くなっているので、リハビリをすれば、車椅子をもっと楽にそして自由に使えるようになるだろうと言われた。
 喉の状態は良いと言われた。元の声と同じ声が出せるかはわからないが、もう普通に話してもいいはずです、と言われた。
 ただ、リハビリと検査は続ける必要があるので、当分の間、病院には通わなければいけなかった。
 そして最後に、「今、入院しているのは、街に出て細菌の感染を防ぐためでもあるのです」と言われた。
「今の富岡さんは免疫力が落ちているので、普通の人なら重篤にならない普通の雑菌でも、感染したら危険な状態になる可能性があるんですよ。言わば、安全な所に隔離しているわけです」
 担当医は冗談めかして言った。

 病室に戻った高瀬は「あと二ヶ月かぁ」と言った。
「あと二ヶ月よ」と真理子が言い返した。
「これまでに比べれば、あっという間よ」
「そうだな」
「一時は危篤状態だったんだから、よく回復してきたものだわ」
「そうなんだ」
「そうよ。あなたは意識がなかったら覚えていないだろうけれど、大変だったのよ」
「今も大変だけれどね」
「どういうこと」
「こんな躰だからね」
「それはしょうがないわよ。よく、ここまで回復したことを感謝しなくちゃ」
「そうだね」
「わたし、帰るけれど、用事ある」
「いや、特にないよ」
 そう高瀬は言いかけて、「いや、待ってくれ」と言った。
「退院するなら、服が要る。今ある服では痩せた俺の躰には合わない。テーラーを呼んでくれ。服を何着か作りたい」
「じゃあ、いつもの服屋を呼ぶ?」
 真理子がそう言うと、高瀬はある洋服店の名を挙げた。
「そう、わかったわ。ここに採寸に来てもらうようにするわ。いつがいい」
「早い方が良い。向こうの都合に合わせてなるべく早く来てもらうようにしてほしい」
「わかったわ。頼んでおくわ」
 真理子はそう言うと、キスをして病室を出た。