三十八-2
出社した真理子は社長室に入ると、すぐに高木を呼んだ。
昨日、富岡が検討して欲しいと言っていた物件を高木に見せた。
「社長がここがいいと言うんなら、いいんじゃないですか」
「そう」
「ええ、そう思います」
「それでは、この物件にあたってみてくれる」と真理子は言った。
「わかりました」と言って、高木は社長室から出ていった。
三十分もしないうちに、高木が再び社長室に入ってきた。
「例の物件、仮押さえしておきました」
「じゃあ、よくわからないんだけれど、本契約で進めてくれる」
「わかりました」
「それと会社移転の時期なんだけれど、いつがいいのかしら」
高木は壁に掛かっているカレンダーを指さしながら、「会社の移転先が決まったら、なるべく早い方が良いですね、会社の移転先についての契約は、来週の頭には済みますから、平日を避けるなら、最短で二十三、二十四日の土日ですね」と言った。
「それって、すぐに決められる」
「総務部などに相談してみます」
「決まったら、どうすればいいの」
「決まったら、真理子さんにご報告しますので、臨時取締役会を開いて、そこで話してもらえれば結構です」
「会議室は今、使えないわよね。その臨時取締役会はどこで開けばいいの」と真理子が言うと、高木は社長室を見廻して「ここで開けばいいんじゃないでしょうか」と言った。
「そう」
「ええ、社長を含めて八人ほどですから、大丈夫ですよ」
「わかったわ、すべては高木さんに任せます。よろしくお願いします」
「わかりました」と言って、高木が出ていった。
高木がいなくなった後、真理子は何もすることがなくなった。
午前中も午後もただ、社長室の椅子に座っているだけだった。
時間を持て余した真理子は、昨夜打ち切った考えをもう一度整理してみた。
そうすると、一つの推論が浮かび上がってきたのだった。
それはとても恐ろしい推論だった。
今、富岡修だと思っている人物が、実は高瀬隆一なのではないか、というものだった。
そう考えるといろいろなことの辻褄が合うのだった。
午後五時になると、すぐに会社を出た真理子は病室に向かった。
病室に入ろうとして、ドアを開けた時、中から声が聞こえてきた。誰か来ているのかと思って中に入っていくと、慌てて富岡が受話器を置いたところだった。
真理子が口を開こうとすると、「今、会社に電話しようとした」と富岡は言った。
明らかに不自然だった。真理子は「そう」とだけ言って窓際に立った。いつもはするキスを今回はしなかった。する気になれなかったのだ。
「何かあったのか」と富岡は訊いた。
真理子は「いいえ」と言った。誰と電話をしていたのだろうと考えていたのだ。
「誰か来たのか」
「いいえ」と真理子が答えた後、「誰が来ると言うの」と訊き返した。
真理子は自分の推論をどう確かめていいのか、わからなかった。だが、もし、富岡修が高瀬隆一なら、トミーソフト株式会社のことは知らないはずだ。とすれば、そこに突破口があるかも知れないと考えた。
真理子は、会社で浮き上がっている自分がどうしたらいいのかわからないと、富岡に訴えてみた。
富岡が夕食をとっている間も、真理子は、今日は会社移転に関して高木と重要な話をしてきたのにもかかわらず、半ば作り話の愚痴を散々と言い立てた。
夕食が終わると、真理子はベッドテーブルの上に山のような書類を置いて、「これに目を通して決裁をお願いします、だって」と言った。そして食器が片付けられた後に、真理子は「わたし、明日から会社に行きたくないわ」と言ってみた。
「そう言わないでくれよ。俺は真理子のことを頼りにしているのだから。真理子が会社に行きたくないのと同じように、俺も病院にはもういたくない」
真理子はくすりと笑った。真理子の話を富岡は信じ込んだのだ。
「なあ、前は真理子のことをどう呼んでいたんだ。お前って言っていたのか、それとも君か」
不意に富岡がそう訊いて来た。
「何言ってんのよ、お前って呼んでいたでしょ」
「そんなことも覚えていないんだよ。分かってくれよ」
「あなたは何もかも忘れているのに、何故かソフトのことは覚えている。不思議よね」
「…………」
「都合の悪いことだけ、忘れているんじゃないでしょうね」
「そんなこと……」
あるわけないわよね、人が変わってしまったんだから。
真理子は、高瀬隆一が富岡修に替わったことを半ば確信した。
富岡は、真理子と話しながら、せっせと文書に目を通していた。そして、次々と判を押していった。
判を押し終えると、富岡は「明日、これを会社に持っていってくれ」と、書類を真理子に渡しながら言った。
「わたしは伝書鳩なの」
「そんなわけないさ」
富岡は書類を受け取ろうとする真理子の手を掴んでその唇にキスをした。真理子は最初、抵抗しようとした。しかし、止めた。これからは高瀬隆一とキスをするのだ。そう思うと、妙な昂揚感が生じた。
長いキスの後に、真理子は床に散らばった書類を拾いながら、「あなた、キスもうまくなったのね」と言った。
「そんなことないさ。これは記憶を失ったことの唯一の効用かも知れない」と富岡は答えた。
「何、それ」
「初めて恋した時の気分になっているから」
富岡の嘘は下手だったが、真理子は拾っていた書類を置いて、再びキスをした。理屈ではなかった。富岡修以外の男とキスをする。そのことが昂揚感を生んでいたのかも知れなかった。